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いらっしゃるとは?/ ノーローン

[ 1150] 離婚されてお子さんがいらっしゃる方へ : 妊娠・出産・育児 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
[引用サイト]  http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2008/0227/171253.htm?g=05

トピ主さんも、本当に自分の中で辛い思いを抱えてこられたのでしょうね。しかし、恨み言を言わなかったとは、本当に大人の対処でいらしたと思います。
この小町でも、離婚経験した母親の恨み言や男性依存の方が多いなかで、トピ主さんの一言は本当に心をゆさぶりました。今後の貴女とお子さんに幸多からんことをお祈りします。
トピ主さんは、頑張ってこられたのですね。そして元ご主人も義務と愛情をお子さんに示してこられた。喜ばしい事ですね。
それが理想です。けど母親側はそう思っていてもすぐ責任放棄してしまう父親がいっぱいいるんです。こっちからあえてそうしてるわけじゃないです。
「お父さんとお母さんは相性が合わなくて別れたけど、お前のことは二人とも大事に思っているんだよ」とかかれてますが、同じ気持ちです。
父親としての気持ちは複雑ですが、ここではさておき、その家族で愛されていれば「子供の未来と健全な精神育成のため」にはそれでよいのかもしれませんね。
離婚成立後に戻った実家で、息子は私の両親と祖父母に愛情深く育てられてきました。幸いに良い縁があって再婚しましたが、それまでに息子が与えられてきた愛は、ひとり親であったことを埋め得るものだったと考えています。
勿論、子どもには両親の愛が必要である、というご意見には賛同できますし、それが最良なのであろうと思います。
知り合いで再婚する際に新しいお父さんを好きになってもらいたいから本当の父親がどれだけひどい男かを息子(4歳)に教える!と言っていた女性がいましたが・・・。
元夫は働かない上に借金するような人間で、とうとう子供の学資保険にも手を付けたので別れました。私に未練があるようで最初は手渡しで養育費を渡そうとしましたが、「振り込みにして欲しい」と言ったらその後は全く無しです。今もちゃんと働いているかどうかも判りませんが、男一人どんな仕事をしたって「親としての努め」を感じているならば、一万円でも我が子に送ってこれると思いますが。
相手は別れたくなかったけど、自分がもう嫌と投げ出した。子供を連れて出たけれど、金銭的にも精神的にも子供を一人で育てるのは無理だとわかった。みなさんも意地をはらず、別れたご主人の力借りましょうって・・・そんな事が簡単に出来る人なら別れていないのでは?相手が再婚していたら、離婚してからも自分の夫みたいな気持ちは失礼ですよ。子供の父親だからと言って、離婚してからも別居してる夫位の感覚ってかなりズレてるように思いますよ。離婚て本気で何があっても自分で育てる位の覚悟でするものではないですか?
出来ないなら、結婚生活続ける努力をされた方が良かったのでは?なんだかトピ主さんは自分のプライドで離婚したような経緯があったのでは?という気がします。奇麗事言ってますが、あまい人だな〜と思います。子供さんが高校卒業したこれからは、精神的にもう元夫を頼るのはやめることです。
私は元夫には合わせていません、色々な事情があって…健全な育児じゃないようなので、将来家の娘は問題児になってしまうのだろうか心配になってしまいます。今まで頑張ってきたのは無駄なのかなぁ。
子供の半分は父親の血が流れています。父親を否定されるということは自分の半分が否定されることになるのです。
母親が父親の悪口を言葉に出していわなくとも子供は感じます。そして自分を否定したまま、本当の気持ちに封印を
子供と出会うために元夫は存在し、子供が出来てもう使命は終わり、あなた方の前から姿を消してしまったのですから。
どんな人でも恨んでいては幸せになりません。恨むに値するひとでも、それによってあなた方がふし合わせなら、
夫には貸した700万ほどの借金を踏み倒されました。私の持ち家に住み、生活費は入れたことなし。夫は金目当てで私を妊娠させたのだし、自分だけが可愛いバカ夫の身勝手で娘にまで困窮生活などとんでもありません。離婚の条件が借金は一切返さない、養育費も払わないと言うものだったので、離婚後一切のコンタクトはありません。夫は離婚後即我々元夫婦間を引っ掻き回してくれた女(親が資産家)と再婚、すでに子供がいます。
今後一切夫とは接触無しでやっていくつもりです。幸い私には収入はありますし、両親や兄弟も娘を可愛がってくれています。
娘が何があっても自立できるように成長してくれることを祈っていますが、私の心配は娘が将来、生物学上の『父』と言うだけで金の無心をされたり、役所から扶養義務があるなどと言われないかと言うことだけです。
まぁ、トピ主さんの言ってることは正しいと思うけど、それは性格の不一致とかの「普通の理由」で離婚した人だけかも。

 

[ 1151] 海亀通信
[引用サイト]  http://pws.prserv.net/umigame/diary6.htm

沖縄の日本復帰についてのテレビ番組を見た。米軍に土地や亀甲墓を強制収用され、ブルドーザーで畑がつぶされていく記録映像に、胸がしめつけられた。その次に、おどろくべきことが起こった。銃をかまえる米兵たちの人垣を破って、お母さんたちがいっせいに畑に飛び込んでいったのだ。ブルドーザーで砕かれた芋を拾いあつめるためだった。芋の破片を一つ一つ拾っては、手ぬぐいのような布に入れていく。その日の食べものになるのだろう。涙が止まらなかった。それから瀬長亀次郎をはじめとする、沖縄県民たちの「祖国復帰」の闘いを見ているうちに、こんなヤマトを「祖国」と呼ぶのか……と、ふたたび涙がこぼれてきた。ただ、ただ、恥ずかしい。
イングマール・ベルイマン、ミケランジェロ・アントニオーニ、畏敬する映画監督がたてつづけに亡くなった。二人とも高齢で、やるべきことをやり遂げてからの死であるから、心は揺らがないが、あらためて映画の退化を思い知らされるような気がする。「第七の封印」「野いちご」「処女の泉」「沈黙」など、十代のころから目を瞠り、水を飲むように映画を吸収しつづけてきた。北欧のひんやりと深い薄闇、ヨーロッパ精神の極北といったものに鳥肌がたった。
ミケランジェロ・アントニオーニの映画は、高校生のころ、火山灰が降りしきる南九州の街でふらりと名画座に入って「情事」を見たのが最初だった。映画の革命ではないかと感じた。「さすらい」が上映されている何日間か、学校にいかず、ひたすら映画館に通いつめたこともあった。アンチロマンやヌーボロマンの文学潮流が現れてきたとき、そんなことはすでに映画でなされていると興ざめする思いだった。
あのような深い思いを込めて映画を見ることは、もう久しくない。ハリウッドの娯楽映画ばかりで、ヨーロッパ映画は見ることさえできなくなった。映画はあきらかに退化している。ジャズも退化した。文学も退化した。いや、劣化したといってもいい。すべてが、お子さまランチになっていくようだ。いったいなぜだろう。「人間は死んだ」というフーコーの言葉に激しくいらだったことがあるが、すべての芸術が退化・劣化しつつあるという文脈で考えるなら、フーコーはやはり先見的だったのかもしれない。
紅茶に浸したマドレーヌを食べたとき、不意に過去の記憶がよみがって、プルーストは『失われた時を求めて』という長大な小説を書いた。匂いや味から、無意識に埋もれている生の全体像が浮かび上がってきたのだ。今日、それと似たようなことが起こった。
と言っても、マドレーヌのようなおしゃれな菓子ではなく、東京・中野にある「青葉」というラーメン屋での出来事だった。スープを一口すすったとき、他界した友の笑顔がふっと浮かんできた。ラーメンと、屋久島で死んだ友がなぜ繋がったのか、一瞬、戸惑ったけれど、すぐにぴんときた。
山尾三省さんが末期の胃ガンにかかっていると知ったとき、屋久島へ飛んでいった。死の半年ぐらい前のことだ。そのときはまだ元気で、なんと軽トラックを自分で運転して空港まで迎えにきてくれた。数日、二人で屋久島を歩き回った。山尾さんは大好きな煙草もやめて、自然食にきりかえていた。煙草を吸いたくなると、ポケットから布の袋を取りだして木の実をかじっていた。そして、弟さんがやっている「かぼちゃ家」のラーメンを食べたいと言った。
明日、一緒に食べにいこうということになった。だが油っこいラーメンを、病んだ胃が果たして受けつけるかどうか分からない。山尾さんは遠来の友にかこつけて、ラーメンを食べるという冒険に踏みだそうとしたのだ。
翌日、私たちは「かぼちゃ家」にいった。山尾さんは一口食べて「ああ、おいしい」と言った。少年のような笑顔だった。それは、ほんとうにおいしいラーメンだった。屋久島の特産品であるサバ節を使っているのだ。飛魚のつけあげ(薩摩揚げ)がのっていた。今日食べたラーメンは、飛魚こそついていないけれど、あの「かぼちゃ家」のラーメンの味によく似ていたのだ。
六年前のことだが、それが山尾さんとの最後の会食だった。もしかすると、山尾さんにとって、この世で食べた最後のラーメンだったかもしれない。「青葉」のラーメンを食べ終えてから「ごちそうさま。とてもおいしかったです」と述べると、ご主人は深々とうなずいた。カウンターで一杯のラーメンを食べている客の胸中に、なにかが去来していることに気づいていたのだろうか。
『グリニッジの光りを離れて』という初期の小説に、河原温さんをモデルにした画家が登場してくる。当時、かれはまったく無名で、イースト・ヴィレッジの安アパートに潜みながら、黙々と日付の作品を描きつづけていた。日付の作品のほかに、"I MET" というシリーズがあった。その日に会った人間の名前を記していくだけの作品だ。
ある日、ニューヨーク近代美術館で開かれた「概念美術の動向」という展覧会を見にいくと、日付の作品が展示されていた。イースト・ヴィレッジの安アパートで見ていたものが、美術館の白い壁に飾られているのだ。
「初めからわかりきっていたはずなのに、私は戸惑った。もの狂おしいほど偏執的な情熱で、その日、その日、なんの変哲もない無名の一回きりの日付を記しつづけ、この地球という星の今日の時間因子などをただひたすら記録し、いわば神の日雇い書記のように思えていた行為も、芸術作品であったわけだ。その日、出会った人々の名前を執拗に書きとめ、かつてこの地球という惑星上で生まれ死んでいった、およそ一千億の人類の血をひきつぎ、いまここに在り、たがいの瞳に映り、言葉を交わし、握手を交わし……そうした人々すべてのための宇宙誌的な墓碑銘を刻んでいたいるかのようにみえた行為も、やはり作品にすぎなかったのだ。いや、それは初めからわかりきっていたことじゃないか」
二十数年過ぎて、あの日付の作品が2億円を超える値で取引されるようになったのだ。河原温さんが高い評価を受けていることは、むろんうれしいけれど、なにかしら釈然としない。ぎりぎりまで孤独を突きつめながら、ただひたすら日付を描きつづけていく「神の代理人」のように思えた行為が、いきなり180度、反転してしまったような気分がどうしても打ち消せない。すべてが株価のようなフィクションなのか。
近くに素晴らしいケヤキ並木がある。およそ数百メートルにわたって緑のトンネルがつづいている。よく立ちどまって、樹々の幹に手をあてる。胸のなかで声をかける。夏は涼しく、木漏れ日がゆれて美しい。そこを歩いていくとき、何分間かの至福がある。
ところが、今年の冬、そのケヤキ並木の枝がばっさりと切り取られてしまった。ほとんど丸裸にされたケヤキもある。剪定(せんてい)などという生やさしいものではない。まったく無惨としかいいようがないほど暴力的だ。樹々の悲鳴が聴こえてくる。
木漏れ日が降りそそぐ、涼しい木陰を歩いていくときの至福は、今年の夏は失われてしまった。以前から、そうしようかと迷っていたのだが、今日、散歩の途中、ふっと思いたって区役所(出張所)に入った。
公園課の人に会わせてほしいというと、本所のほうに話してくれという。電話をすると、それは東京都の管轄だという。都庁に電話すると、補修課の第四建設事務所に電話してくれという。そこに電話すると、下請けの業者のほうに電話をしてくれという。予想通り、たらい回しである。
だんだん腹にすえかねて、補修課の責任者を電話口に呼びだしてもらった。樹木の枝をなぜあれほど無惨に切ってしまうのか理由を知りたかった。それまで私は、こうだろう思っていた。下請けの業者たちは、自分たちの仕事ぶりをポラロイドカメラで撮影して、役所に報告したりしなければならない。だから「仕事をした」という実績を強調するために、めちゃくちゃに枝を切ってしまったのだろう。
ところが、東京都庁・補修課の責任者を問いつめると、まったくあきれるような話だった。冬になるとケヤキの落ち葉が多すぎるからだという。かれが現場に立ちあって切らせたそうだ。
私は昔、東京の公園を清掃する仕事についていたことがあるが、落ち葉のシーズンになると泣かされた。数本の大銀杏の落ち葉で、中型トラックの荷台がいっぱいになってしまうのだ。大げさに言っているのではない。まったく本当のことだ。だからケヤキ並木の落ち葉を集める作業が、どれほど大変なことかよく分かる。
だからと言って、丸裸になるほど枝を切り払っていいわけがない。たとえば、表参道のケヤキ並木を丸裸にしていいわけがない。そのように語っても、へらへらと笑うばかりだ。口うるさいおばさんに対して、うすら笑いを浮かべるような対応だった。私は激怒したふりをして、かなり脅した。こういう小役人たちに対しては、どこをどう突けばいいか分かっている。電話を切ってから後味がわるく、自己嫌悪で気が滅入った。
いったい、どうしたのだろう。いま徹夜明けの午前4時50分、ようやく空が白みかけたばかりだというのに、いっせいに蝉が鳴きつづけている。ほとんど夜通し、聴こえていた。いつから蝉は真夜中にも鳴くようになったのだろう。
近くの遊歩道や公園の地面に、ぽつん、ぽつん、と親指大の穴があいている。蝉が出てきた穴だという。山や森とちがって、ここらは夜も明るいから鳴きつづけているのだろうが、大地震かなにか、迫りつつある破局を告げているように聴こえてしまう。今日もまた暑くなりそうだ。
詩人のゲーリー・スナイダーさんと対談することになった。高校生のころ、アレン・ギンズバーグの詩、ゲーリー・スナイダーの詩、ジャック・ケラワックの『オン・ザ・ロード』などをむさぼり読んでいた。そうして大学にはいかない、旅に出よう、と決めてしまった。フランス文学やロシア文学にくらべて、文学上の影響は少なかったけれど、ビートニクとの出会いによって、人生を決定づけられたのだ。その詩人と語り合えるのだから、とてもうれしい。しっかり心を定めて、深い対話にしたい。
炎天下を、一時間ほど歩きつづけた。自分なりの追悼のつもりだった。島尾敏雄、中上健次、山尾三省、友人や知人たちの死を知らされた日も、仕事を放りだして、ただひたすら歩いていた。ほとんど葬式にはいかない。いつも、ひとり歩き回ることが追悼だ。今日は八月十五日、肌が火傷をしそうな、すさまじい暑さである。この日に向かって、暑さも、内的ボルテージの吃水線もぐいぐいせり上がっていくような気がする。木々の下に、蝉たちの死骸がたくさん落ちていた。
いつものように泡盛を燃料にしながら、夜明けまで書きつづけているとき、いきなり地震がきた。ついにきたか……と一瞬、覚悟する。まわりの紙の崖がくずれそうになる。急いでパソコンの電源を切り、本棚の置き時計を見る。なぜか地震がくるたび、条件反射のようにその時計に見るくせがついてしまったようだ。二十一歳で自殺した教え子のお父さんから頂いた時計、小さな真珠がぽつんとはめ込まれている置き時計は、すでに止まったままだった。
少し涼しくなってきたので、久しぶりに上野へ出かけることにした。この街はとても好きだ。自分の足もとが、まぎれもなくアジアの一部であることを思いださせてくれるから。
まっさきに「上野藪そば」にいった。店がまえはごくふつうで、平凡なコンクリート造りだ。ここのそばは、ほんとうにおいしい。もう何年も通いつづけているが、一度として、手抜きのそばが出てきたことはない。
まだ山梨の「翁」や、広島の「達磨」にはいったことはないけれど、名店といわれるそば屋は、かなり食べ歩いてきた。私が知っている範囲で……と限定するなら、この「上野藪そば」は日本一であると思う。てらいも気取りもなく、質実があり、小説家にたとえるなら藤沢周平のようなそばである。
極上のそばを堪能してから、虎を見にいった。上野動物園ではない。東京芸術大学美術館へ、円山応挙の「虎」を見にいったのだ。本物の虎を見たこともないまま描いているせいだろうが、その虎の顔が、どこからどう見ても猫なのでおかしかった。だが、見事な傑作であった。
猫そっくりの頭部の上、首すじから背中にかけて、ゆらゆらと燃えたつオーラか光背のように、虎の縞もようが描かれている。だから七、八頭の虎が、愛嬌のある霊獣に見えてくる。とくに左端の虎がふっくらとして、かつて飼っていた虎猫にそっくりで、その絵を、ふすまごと盗んでしまいたくなった。
国立博物館のミュージアム・ショップに寄って、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」の一筆箋を買った。この一筆箋は気に入っているのだが、ずっと切らしていた。国立博物館でしか売っていないのだ。
アジアの匂いが漂う街をほっつき歩き、夕方「池之端藪そば」にいった。同じ日に食べて「上野藪そば」としっかり比べてみるつもりだったが、横綱と関脇ぐらいの差があると思った。もちろん「上野藪そば」のほうが横綱である。上野には、名店と呼ばれるそば屋が三つある。森鴎外や、横山大観が好んだという「蓮玉庵」は、いかにも老舗っぽい店がまえだが、伝説にあぐらをかいているのか、いまや小結か、前頭筆頭ではないかと思う。
夕涼みがてら、不忍池の蓮を見にいった。日は沈んでいるが、それでも花が咲いている。近くの店で「シーサーズ」という沖縄民謡グループのライブをやっていた。夕闇のなかでも明るい蓮の花を眺めながら、なつかしい島唄に耳を澄ましていた。
今日は柄にもなくジャパネスクな一日であった。そして、すでに夜だ。さあ、これからまた夜明けまで仕事だぞ。
長いこと低迷がつづいていた。長編Xは700枚ぐらい書いて、すでに初稿は最後まで書きあげている。それでもまだ迷いがふっ切れない。新作に取りかかるたびに、いつも自信を失ってしまう。自分はほんとうにこの小説を完成させられるだろうかと不安になる。小説家にとって、安定した方法というものはない。一作ごとに未知の宇宙へ迷い込んでしまう。
だが、どうにかスランプから脱出できたようだ。急がねばならない。この次に取りかかる予定の『ぼくは始祖鳥になりたい』シリーズ第三部を完成させなければ、成仏することができないだろう。それとは別に、どうしても書かねばならないことがある。その小説で、初めて現代日本と向きあうはずだ。
そして昨日、もう一つの出来事があった。ずっと以前、ある雑誌で「世界の十字路」という小説を連載していたことがあった。400枚ほど書いていちおう完結して、出版社も決まっていたけれど、まだ本にしていない。出来映えに満足できなかったからだ。昨日、その小説の活路が見えかけてきた。想像力で書いた主人公とそっくりの人物と、偶然、知りあったからだ。
小説家という仕事は烈しいストレスばかりで、報われることは極めて少ない。二十七年前、ある新人賞をもらって作家への道を踏みだしたのだが、その授賞式の挨拶で、私は孤独について話をした。そして宴席をぬけだしてトイレにいくと、「内向の世代」を育てあげた名編集者Tさんと出くわした。ならんで用を足しながら立ち話をした。
ゲーリー・スナイダーさんと立教大学で対談した。カリフォルニアの山中に隠棲しているようなイメージがあったけれど、異文化の波がぶつかり、混淆しつつ、なにかが生成しつつある「刃先」にいるという詩人の自覚が新鮮だった。「刃先」とは、ゲーリーさん自身が口にした言葉だった。私は、ナーガ(長沢哲夫)の詩集『ふりつづく砂の夜に』の序文として書いた言葉を引用した。
「ナーガは離島にいるのではない。辺境にいるのでもない。黒潮の真っただ中で、地球的な時間で、いま、まさに生成しつつある世界の切っ先を生きているはずだ」
その通りだ、とゲーリーさんはうなずいてくれた。対談を終えて、いったん別れてから、夕方、渋谷の Flying Books で再合流した。友人たちが駆けつけてくれた。まわりに超高層ビルがそびえたつ狭い屋上で、バーベキューの炭火を熾(おこ)し、諏訪之瀬島からナーガが送ってくれた飛魚の干物を焼き、「三岳」を飲みながら、楽しい宵を過ごした。ナーガに電話すると、山尾三省の七回忌のため、いま屋久島にきているという。あまりの暗合に茫然となった。
皆既月食が起こっているはずだが、夜空は厚い雲におおわれている。雷が鳴りだした。南西の空、北東の空と、めまぐるしく雷鳴が走っていく。稲妻が光り、夜の底が白紫の閃光に照らしだされる。十一階のベランダで目を瞑り、耳を澄ましていた。避雷針が頭上にあることを知っているから、じっと坐っていられるけれど、もしもここが山であれば、恐ろしくて逃げだしてしまうだろう。こんな凄い雷は久しぶりだ。
二十分ほどたって、ついに雨が降りはじめた。待望の雨だ。今日の昼も、花が咲きかけたまま立ち枯れしているヒマワリを見た。葉がちりちりに乾いている木もあった。久々の雨にうたれ、木々がふるえている。降れ、降れ、降れ。ここは皆既月食の空の下、頭上から水が落下してくる奇妙な惑星なのだ。
出来上がったばかりの『惑星の思考』が届けられた。びっくりするほど素敵な装幀だ。大竹伸朗のカバー画「記憶余波」が素晴らしく、手に取っただけでわくわくする。最初の本『南風』が出来たときは、枕もとに置いて眠ったものだ。横尾忠則さんの装幀だった。スタンドの灯りを消して目をつむっても、昂ぶって寝つけず、また灯りをつけて本を手に取ったりした。まるで遠足前夜の少年のようだった。それ以来、二十数冊も本を書いているうちに、いつのまにか感動は薄れて、新著を手にしても、やれやれ、やっと終わったと肩の荷を一つおろしたような気分になることが多かった。
ところが『惑星の思考』は、まるで最初の本のようにわくわくする。装幀とは、作品に着せられる衣装のようなものだ。たとえ自分の好みではなくても、書いたものに定価がつけられ、商品として世に送り出される以上、なんらかの衣装をまとわなければならない。だから、与えられた衣装を着るしかない。ほとんどの場合、どうも貸衣装を着ているような居心地のわるさがつきまとう。だが、今度の『惑星の思考』の装幀はまさに自分の服だという気がする。これが自分の本のかたちなのだ。ほんとうに、ありがとう。
9月11日がやってくるたびに、今日で何年過ぎたのか、いつも指を折って数えてしまう。こんな事件は、やはり生涯でほかになかったような気がする。地下鉄サリン事件はあれほどの衝撃でありながら、もう記憶から遠ざかっている。8月15日がやってくるたびに「戦後何年」と言われるけれど、私にとってはそれに匹敵するほどの事件だった。
いまもテロがつづき、血の海が乾いていないというだけではない。世界に亀裂が走り、歴史の深層が変わってしまった。だが6年も過ぎたというのに、その亀裂が何であるのかまだ言語化できなくて、もどかしい。
9.11に触発されて、歴史ともアメリカともグローバリゼーションとも経済至上主義ともつかぬ何かに、せめて一矢を報いたいという思いから『焼身』を書いたつもりでいるが、まだ言い切れていない。『焼身』に書き切れなかったものが、まだ山ほど残っている。
ライフワークの『ぼくは始祖鳥になりたい』シリーズの第三部に早く取りかかりたいのをがまんしながら、いまは『焼身』と一対になる長編を書きつづけている。主人公はまったく別人であるが。
『焼身』は、ささやかな船であったと思う。破綻もなく、小さくまとめてしまったという忸怩(じくじ)たる思いが、ひそかに胸で膿みつづけている。小さな船だから、積み残したものが山ほどある。おそらく、それは人類史に関わることだから小さな船に積みきれるはずもない。もっと大きな船を建造しようと思いたちながら、力不足で、長いスランプに陥っていた。
9.11から6年目の今日、夕暮れの池袋をぶらついた。ジュンク堂9階の洋書売場で、書物のことをよく知っている店員に助けられて、探していた一冊をようやく手に入れることができた。それから4階のカフェに降りて、コーヒーを飲み、すぐに路上に出た。小雨の街をうろつき、喫茶店の地下室に沈み込むように坐りながら『色と空のあわいで』(古井由吉 松浦寿輝 往復書簡集)を読みつづけた。言葉が上滑りしないように自戒したかった。歯止めをかけたかった。
控室で語りあううちに、たちまち時間がきて、対話のつづきが公の場に移されてしまった。すると、とたんに何もしゃべれなくなってしまった。部屋にこもって小説を書くだけの日々がつづいているから、人前に出るのは久しぶりだ。うながされて何か話そうとするたびに、井戸の底に釣瓶(つるべ)を降ろして、ことばを汲みあげようとしているような気がしてくる。早く話さなければと焦れば、焦るほど、うまく水を汲みあげることができず、短い沈黙がくる。吃音者の心境だった。
坂本さんは音楽に集中したいはずだが、いま「柏崎刈羽原発」の運転再開を止めようとする署名運動を起こしている。
だれかがやらなければならないことを、引き受けている。芸術家でありたいという思いと、逃げることはできないという矛盾に引き裂かれていることが痛いほど分かる。その矛盾を、ずっと共有しているような気がする。文学には文学の自律性があるはずだ、社会的な言説ではなく、小説家は(言語芸術として)ひたすら小説を書くべきだと叱咤されることもある。だが、そのように自閉してしまっていいかどうか迷いながら、いまも揺れつづけている。坂本さんと語りあうたびに、その矛盾を生きるしかないという思いを強くする。ありがとう、坂本さん。
海亀塾のひとりが mixi の日記で、どうしても「ゆずれないもの」について書いていた。それを読んで、しばらく考え込んだ。自分にとって、これだけはどうしても「ゆずれないもの」は何だろうか。自分の井戸の奥をのぞき込んでみた。答えはおのずと浮上してきた。やはり、文章だな。
かつて金本位制であったころ、紙幣とは金(金属のゴールド)と交換できるものであった。それが紙きれにすぎない紙幣の信用を裏打ちしていた。だから国家が紙幣を発行するとき、それと同額の金(ゴールド)を準備していなければならなかった。ところがフロート制(変動相場制)に変わったときから、紙幣はいくらでも印刷してもいいことになった。貨幣がひとり歩きするようになり、暴走し、やがてマネーゲームはとめどなく過熱していった。
言葉も、フロート制になってしまったようだ。ネットに氾濫している言葉の洪水をみると、フロート制であることがよく分かる。文学もフロート化してきたようだ。いま自分が試みていることは、金(ゴールド)と交換できる言葉を生みだすこと、言葉の力を回復させることだろうか。
ドストエフスキーについての論考を書いていた。10枚ぐらいという依頼だったが、いざドストエフスキーについて書くとなると、とても10枚では済みそうもない。「少し長くなるかもしれませんが、許容範囲はどのくらいですか?」と問い合わせたところ、「20枚でも、30枚でも、50枚でもいい」という返事だった。その心意気がうれしく「人間は終わったのか――ドストエフスキーについて」という稿料なしの原稿を本気で書きつづけていた。フーコーが語る「人間の終焉」という言葉にひっかかっていた。どうやら目鼻がついて、400字詰め原稿用紙に換算してみると、40枚を超えていた。
フロート制ではなく、金(ゴールド)に交換できる言葉を生みだしたいという夢は事実であるが、一方で、自分が『贋金つくり』をしているのも、まぎれもない事実なのだ。それを忘れてはいけないぞ。
恐れていたことが、ついに起こった。ミャンマーの大仏塔シュエダゴン・パゴタの前で、軍部が仏僧や市民たちに発砲して、5人の僧が死亡したという。さらに、数か所の僧院に武装兵士が突入して、650人の僧たちが拘束された。軍部はもうなりふりかまわず、本気で弾圧するつもりのようだ。ついに、この日がやってきてしまった。油鍋のように煮えたぎっていたベトナムと同じように僧たちが立ち上がったのだが、楽観はできないようだ。もしかすると、ティック・クァン・ドゥック師のように「焼身供養」する僧が現れてくるかもしれない。
仏僧たちの組織も一枚岩ではなさそうだ。高僧たちが軍部に懐柔されているらしいという情報が、あちこちから洩れ聞こえてくる。もしも僧院が完全に制圧されてしまったら、この潮流もふたたび押さえ込まれてしまうかもしれない。それを怖れる。
共同通信のKさんが、インタビューにきてくださった。Kさんは、節目ごとに発言の機会を与えてくださる人だ。香田証生君が、イラクで首を切断されたときもそうだった。たまたま私の息子も陸路でアフガニスタンに入ったばかりのころだったから、どうしてもかれの死が他人事におもえず「若者の死を悼む」という文章を書いた(『麦わら帽とノートパソコン』に所収)。一人の若者の死に、なんらかの意味をあらしめて、短い生を掬(すく)いとりたかった。せめてもの鎮魂のつもりだった。今日は新刊書にからめて、9.11以後の状況についてのインタビューであったが、終わってからゴーヤチャンプルーを作り、沖縄のこと、ミャンマーのことを延々と語りあった。

 

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