思いとは?/ ノーローン
[ 339] 日々の思い
[引用サイト] http://willseeds.txt-nifty.com/omoi/
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毎日毎日、教育のこと、子ども達のこと、世の中のこと、真面目なこと、他愛ないこと、色々なことを考えています。 住宅ローンアドバイザーはマイホーム購入の心強い味方です (住宅ローンアドバイザーはマイホーム購入の心強い味方です) 今年度は幼児さんのレッスンは半分ぐらいしか自分で見られなくなってしまったけれど、スペースの関係もあり、幼児さんとのレッスンは今でも最大1対2。時間によってはマンツーマンでレッスンさせてもらったりもしていた。(4月からはまた色々変更になりそうだけれど…) 小学生の方は1対2の枠はほぼないし、常に問題を解いていないといけないこともあって、結構いっぱいいっぱいのフル回転になることが多いのだけれど、幼児さんとのレッスンはいろんな意味で余裕がある。その分、一人一人の反応をかなりじっくり見ることもできる。 その子にとって難しい問題に取り組んでいるとき、ほとんどの子が眉間にしわを寄せたようなまさに「難しい顔」をする。相手は小さい子なので、その「難しい顔」すら可愛いのだけれど、その顔を見ながらも(ああ、今考えてるんだなぁ)と思って、間もなく訪れる瞬間にワクワクする。 しばらく難しい顔をしていた子たちが、その答えを見つけた瞬間、本当にまるで電球がぱっと点くように、表情がぱぁっと明るくなる。すごくすごく幸せそうにニコニコ笑う。 今日もある女の子が色板をお手本通り置こうとして、ある部分で考え込んでしまい、なんだか難しい顔になっていた。とても可愛い子なのだけれど、ある形の色板を握ったまま、眉間にしわが寄っている。あれこれ試行錯誤してから、だんだん答えに近づいてきた。すると、かすかに「あれっ?」という表情に変わった。 この間、彼女は何を言うでもなく、ひとりでじっと考えていた。私はそれを見守っていただけだ。そんなにじっと見られていることすら、きっと本人は気付いていなかっただろうと思う。 今日のこの子に限らず、幼児さんたちのその表情はレッスン中にしばしば見られる。みんな、自分の頭をフル回転させて、あれこれ考えて答えを見つける。そして、見つけた瞬間、本当に嬉しそうな、幸せそうな顔をする。 これが「学ぶ」ということなんだろうなと思う。この子たちの電球が点くような表情を、これから先もずっとずっと見続けていたいと思う。 先日、遠方から1年生の子とそのお母さんが体験にいらした。体験についてのお問い合わせの際、私が伺った限りでは、そのお子さんは想像を絶するほど素晴らしく優秀であるようだったし、恐らくそれは私でなくても、ほぼ全ての大人が聞けば驚くようなレベルのお話だった。 それにも関わらず、あるところに問い合わせをした際、「まだ○○も△△もやってないんですか?遅れてますね〜」と言われたとおっしゃるのだ。 「遅れている」というのは一体どこに基準があるのだろう?現に、そのお子さんはとある有名受験塾で飛び級までして、更にそのクラスでもトップレベルにいるそうだ。そのお子さんに対して「遅れている」という、その基準はなんだろう? その基準で行けば、うちに来ている子たちなんて、当然例外なく全ての子が遅れているが、うちの子たちはほぼみんな、学校よりずっと先のことを学んでいるのだ。(もちろん、ただ先に進むことが大事なんてことは全く思っていない。子どもたちが無理せず自然と進んで行って、その結果、殆どの子が学校より先のことを学んでいるというだけのこと。) どこまで進めば「ちょうど」なんだろう?それを言った方たちにとって、1年生で「進んでいる」というレベルは小学校内容を全て終えているぐらいの話ということか? そもそも、「何に」遅れているんだろう?あるお話では、そのペースだと中学受験に間に合わないということのようでもある。しかし、1年で既に小学校内容の8割、9割を終えていなければ間に合わないような受験ってなんだろう? もちろん、私には灘中やそれに準じるレベルの最難関と呼ばれる学校の入試の難易度はよくわからない。ただ、もし本当にそんなに早くやらないと間に合わないのだとしたら、そこまでして、何が何でもやらなくてはいけないようなことなんだろうか? 灘中や灘高、その他の難関校に入るのは最終ゴールではないはずだ。少なくとも、そんな難関を目指す人たちは大学やその先まで見据えているに違いない。海外に出るのであれば話はまた変わってくるかもしれないが、国内でいえば、大学の最難関のひとつは東大だろう。 では、東大に行くには中学で最難関校に行っていないといけないのだろうか?そんなことはない。もちろん、最難関校からの合格者数は多いかもしれないが、公立の進学校などからだって合格者は出る。 もちろん、例えば子ども自身がすごく数に興味があって、強制しなくてもどんどん吸収して先のことまで学んでしまうような場合は、それをやめさせる必要はないのかもしれない。ただ、色んな情報に踊らされ、これじゃ遅れているのかと焦り、子どもに次々とステップを上がらせることは本当に必要なのだろうか? こんなことを書くと、じゃああなたは何やってるんだ?と言われるかもしれない。けれど、私はこれまで何度も書いている通り、勉強したくない子に強制する気はさらさらないし、もっと遊びたいからやめますという子は引き留める気ももちろんない。ただ、私が教室をしている地域は教育熱心な方が多い地域でもあり、幼少期から様々な習い事に通わせているご家庭も少なくない。その習い事の中に「お勉強の教室や塾」というものも入っていることも多く、その場合の選択肢は、幼児、小学生のお勉強といえば大抵の方がすぐに思いつかれるであろうあの教室やその教室…などになることが多い。 だったら、それじゃなくってこんなのもあるんだよ、楽しいけどちゃんと賢くなるんだよ、ってことを訴えているだけなのだ。 もしも、本当に1年生にして小5や小6の内容を学習していなければ遅れていて、中学受験に間に合わないというのなら、ますます私は中学受験に対応する気なんてない。そこまでして中学受験をしなければならないとはどうしても思えないからだ。 それをおっしゃった方がどなたか特定されて、万一その方にご迷惑がかかっては困るので、どなたかは伏せさせて頂くけれど、尊敬するある方は以前おっしゃったことがある。 「今の学校教育は、全ての指導者が指導できるよう、一番能力の低いものでも指導ができるような指導法になっている」 初めの頃はその言葉の意味がわかるようなわからないような、そんな感覚だったのだが、最近その言葉の意味をしみじみ実感することがある。つい昨日頂いたコメントで「教授法自体に…」というところがあったけれど、それは実際否定しがたい面もあるのだと思う。 先にお断りさせて頂くが、私は学校批判や教師批判をするつもりは毛頭ない。そもそも、過去何度も書いている通り、私は学校以外で「先生」との関わりはほぼなかったし、その「先生」にはとても恵まれ、素晴らしい先生方に出会えたから、今の自分があるとも思っている。 また、友人や先輩、後輩に教員をしている方もいるし、みんな本当に頑張っておられると思っている。学校や先生を批判したいのではなく、教科書や指導の仕方自体、これまで私たちがそれが「普通」だと思っていた方法自体が、かえって子どもたちの学習意欲を阻害したり、難しく感じさせたりしてしまうものなのではないかということだ。 数年前までの私の指導スタイルは、それまで私自身が学校で受けてきた授業がベースになっていたし、あとはそれにいかに自分らしさを加えるか、より分かりやすい授業にするか、そういうことをいつも考えていた。 元になっているものが「学校の授業スタイル」であり、それは長い間脈々と受け継がれているのだと思う。小学校に上がると、殆どの子どもがそれから9年なり12年なり、同じようなスタイルの授業を受け続ける。当然、授業とはそういうものだと強くインプットされる。そんな子どもたちが大学に進み、教員になったり、塾や予備校、教室の先生になったりしたとき、「授業」というもののスタイルに疑問を持つことは稀だろう。 昔子どもだった大人の多くが、似通った授業像を持っているのはほぼ間違いなく、それがまた子どもに伝えられていくのだろう。 その結果、多くの子どもが速さの公式が覚えられないと言い、割合が苦手だと言い、分数計算が難しいと言う。多くの子どもがそうだから、多くの大人も「そういうもんだ」と思ってしまう。そして、いつまでもそれを繰り返し続ける。 もちろん、うちの子たちの中にも算数が得意な子もいれば、苦手な子もいる。あっという間に理解してしまう子がいる一方で、身につくまでに平均的な子の何倍も、何十倍も時間がかかる子もいる。それぞれの子どもの持っている能力が異なるのだから、全ての子どもが同じように必ず伸びる方法など存在しない。(全ての子どもが努力すればイチローになれるわけではないし、同じように練習したからってみんなの走る速さが同じになることもないのと同じことだろうと思う。) それでも、少なくとも私にとっては、家庭教師をしていた頃や塾講師をしていた頃と今のスタイルを比べれば、言うまでもなく、今のスタイルの方が圧倒的に子どもたちは力をつける。おまけに、それは子どもたちにとっても私にとっても、既存のスタイルよりずっと楽なのだ。そんな嘘みたいな話が実際にあるのだ。 教室を始めたとき、小さな小さな広告を出した。採算なんて全く取れていない頃だったから、数ヶ月に1回、小さな小さな枠に書ける限りびっしりとメッセージを書いた。私がそこに書いたことは少なくとも全て私にとって本当のことだったけれど、今、通ってくれているある子のお母さんが時折おっしゃる。 まあ、確かにそうだろう。言われてみればかなりアヤシイ。(苦笑)楽しいのにどんどん賢くなるなんて、普通は信じられないし、それを書いているのがまだ全く認知されていない小さな小さな教室となると、胡散臭さ満載だったことだろう。それを見て問い合わせをくださった初期の皆さんの勇気に感謝せねばと思う。(笑) 声高に学力低下が叫ばれる一方で、幼児教室や低学年からの塾通いなどもどんどん増えている。授業数が減った、教科書の内容が薄くなったと言っても、それ以上によそで勉強している子たちもいるはずだ。それでもここまで学力低下が問題視されているのは一体なぜだろう?突き詰めれば、根本的な何かが間違っているということはないだろうか? もちろん、既存の授業スタイルを全て否定しようとは思わない。教師が説明して進めなければ成り立たない教科や単元だってもちろんあるだろう。ただ、私たちにとっての「常識」は時として間違っていることもあるのかもしれない。そんな疑いをどこかに持ち続け、アンテナを張り続けたい。 今日はレッスンがお休みで、だけど、仕事がらみで必要なもの、あったらほしいものが色々あって、ネットで探し物をしたり、街に出て探し物をしたり…。 で、その探し物のひとつは大型手芸店とかハンズとかにはありそうな気がして、ハンズには最近もたまに行くけれど、すっかりご無沙汰になってしまった大型手芸店に久しぶりに足を運んだ。 ここに書いたことがあるようなないような(多分初期には書いたことがある気もするけど)、遠い昔会社員を辞めてから、子どもたちと一緒に勉強することを始めたのとほぼ同時に、彫金を習い始めた。もともとは吹きガラス職人に憧れていたりもして、吹きガラスが習いたかったのだけれど、近場で習えるところがなく、たまたま近くに彫金のスタジオがあったから…というのがきっかけだった。 それでも、もともと物を作るのは好きだったから、時間に余裕のあった頃は結構足しげく通ってあれこれ作ってもいた。そのうち、彫金とビーズを組み合わせられたら楽しいかもと、ビーズインストラクター講習なんてものを受けたりもした。(民間資格でかなりアヤシイものだけれど、実は某団体のビーズインストラクターの認定証は持っている。完全に宝(?)の持ち腐れ…(苦笑)) でも、教室がだんだんと忙しくなり、物を作るだけの物理的にも精神的にも余裕がなくなってしまった。そして、彫金の先生には一旦完全にお休みするご挨拶に行ったのがもう2年ほど前になるんだろうか。 以前はビーズとか天然石のルースとかを見るのが楽しかった。あれこれ見ては、何を作ろうかなとわくわくしていた。実際には作らないにしても、見ているだけでも結構楽しめた。 しかし、今日久しぶりに、仕事で作りたいものがあって(結局それに使えそうなイメージ通りのものが見つからず、何も買えなかったのだけど)、ビーズのコーナーに行ってみた。でも、驚くほどわくわくしない自分がいることに気づいた。 もともとは物づくりと子どもとの勉強が両方とも自分のしたいことだと思っていたのだけれど、今の私はどうやら子どもたちとの今の環境があればそれが一番ということらしい。仕事に関しては色々したいことも、作りたいものもある。でも、仮に彫金を再開できる時間の余裕をどこかで見つけ出せたとしても、今の私はそのために時間を使うなら、教材や教具を作ることを考えたいんだろうなと思う。 レッスン後、ちょっと仕事をしていたのですが、恐ろしく眠く、教室でそのまま寝てしまいそうな危険があったため、帰ってまいりました。 とりあえず、今から着替えて食事の予定ですが、この眠さはかなりのものですので、更新せずに寝落ちしてしまう可能性も…。とりあえず毎日更新と自分で決めているので、とりあえず形だけ…。 今日はラストのレッスンでは明らかに自分の頭が回っていないのを感じ、2桁の足し算や引き算のスピードで1年生スーパーくんに追い付けなくなりかけ、ポロッとそれを口走ったら、スーパーくん曰く… ……。(丸つけのときは以前にも書きました通り、解答を持たず、その場で問題を解いて丸つけしていますので…。) 書きたいことが色々あって、頭の中でもやもや、ぐるぐるしているのですが、今日も間もなく日付が変わりますし、明日は1週間で一番ハードな土曜。おまけに、昨日はなぜかはまってしまい、久々に0時過ぎまで仕事をして帰宅したりもしてしまい、脳が既に停止しつつあるような…。(苦笑)考えてもまとまりそうにありませんので、今日のレッスンでの頼もしい会話を。 今日の夕方のレッスンに5年の子たち2人と2年生というコマがある。今日は2年生の子がお熱でお休みだった代わりに別の2年生が振替で来ていたのだけれど、2人の5年生とのひとコマを。 彼らはうちの主要教材を既に全て終えてしまい、今は5年の分厚めのワークも終了、ひとりは6年のワークも6割ぐらい済んでいるが、もうひとりはスタート時期が違った分、つい最近6年のワークに入った。 まあ、それでも2人とも、高学年になった今も週1回1時間しか算数をしていないわけだし、分厚めのワークのほかにパズル教材もやってもらっていることを考えると、昔いた塾や一般的な塾でのペースからすれば考えられないほどのペースであるには間違いない。 で、進んでいる方の子が学校ではまずやらない「流水算」などの問題を考えることになった。ちらっと見ただけで難しそうなのを感じたその子は「こんなの学校でやるの?」と尋ねたので、「学校ではやらへんなぁ」というと、「中学でやるん?」と尋ねられた。 しかし、私の記憶では中学の授業でもやったようなやらなかったような…そんな問題で、とりあえず「中学受験する子とかはこんなの勉強してるよ」というと、「へぇ〜っ!」と驚きつつ、話は学校の算数へ。 「なあ、学校の算数簡単すぎるよなぁ。簡単すぎて、たまにわからんようになることあるわ。『こんな簡単でええんかな?』とか思ってまうよなぁ?」 ちなみにこの子たちは地元の公立中学に進学する予定で、うち以外塾などには行っていない。おまけに「簡単すぎる」と言った子は低学年の頃からずっとバスケットを頑張っていて、学校外で週に3回とか、試合などがあるとそれ以上、放課後練習を続けているようだ。 ゆとり教育が見直され、この子たちが中学に上がる頃にはまた指導内容が難しくなったり、量が多くなったりするのかもしれないが、とりあえずこの子たちは安心かなと、今日の会話を聞きながら思った。 昨日のつづき。といっても、話は多分あちこちに飛んで、最終着地点があるのかどうかもわからないけれど、思っていること、感じたことをつれづれに…。 昨日の今日、ひと月以上前に読み終えていたものの、なかなか紹介できずに置いたままになっていた本の紹介文を書こうとページをめくっていたら、言いたかったことをひと言でまとめてくれている言葉が目に留まった。 きっと、今私がその言葉を目にするために、これまで紹介文を書くことを伸ばしていたんだろうなとさえ思えた。 そこに書かれていたのは、今日のブログにも引用しているけれど、「子どもに時間と制限を与える」ということ。「ヒマ」と「貧乏」という表現を使っておられたが、まさに!という気がした。 絶対与えすぎてはいけないのだと思う。多くの場合、不便、不自由の中からしか、創意工夫は生まれてこないのではないだろうか。 昔の人が誰ひとり、洗濯板で手洗いする洗濯に不便や苦労を感じていなければ、洗濯機を発明する人なんていなかったかもしれないし、仮に発明してもこんなに普及しなかっただろう。私たちの身の回りの工業製品のほとんどが、不便の解消、不自由からの解放、そんな目的のために作り出されたともいえるはずだ。 今の状態に何の不満もなければ、敢えて現状を変えようなんて思わないし、ほしいものは何でも与えられる環境にあれば、自ら何かを得ようと努力することもないだろう。 そういう意味でも、子どもに我慢させること、不便を感じさせること、物質的に足りないと感じさせることはとても大切なことのように思える。 私が子どもだった頃、おもちゃと言っても今のような電気仕掛けのものなんてほとんどなかったし、色鮮やかだったり、可愛いキャラクターがついていたりなんてものも、そう多くはなかった。 それでも毎日退屈することなんてなかったし、いくらでも遊びは見つけられた。折り紙だってあやとりだって、おはじきだってお手玉だって、メンコだってビー玉だって、それこそ、そんなものさえなくて、ゴムひも1本だって、チョーク1本だって、道具なんて何にもなくても木さえ、地面さえあればそれだけだって…、私たちはいくらでも遊びを生み出した。 チーム対抗のゲームをするときに、人数が揃わなくても、それはそれで勝手にルールを作って楽しむことだってできたし、私たちにとって「遊び」は与えられるものではなく、自分たちで決めて、自分たちで楽しむものだった。 与えすぎて、子ども達の自由な時間を奪ってしまってはいけないのだと思う。大人に管理されない、子ども達だけの時間は絶対に大切な時間だと思う。子どもだけで外で遊ばせるのが危ないとしても、大人は遠くから見守るだけにして、子ども同士でやっていることに極力口ははさむべきではないだろう。 既成のおもちゃやゲームで既に遊び方が決められているもの、ルールが決められているものは、仮に子ども達が楽しんでいるとしても、「創造する」とか「工夫する」とかいうことは限りなく少ない。 ものも援助の手も、与え足りないぐらいでちょうどいいのかもしれない。今日もまたまとまらないけど、「ヒマと貧乏」って、なんだか子どもにとって宝の言葉のようにも思える。 最近ずっと考えているのになかなかまとまらず、きっと書き始めたら色んなことを書いてしまうんだろうなと、そんなことも思いながら、それでもまとめて一気には書けそうにないから、支離滅裂で話があっちこっち飛びまくるかもしれないけれど、とりあえず書き始めてみることにします。 今私たちが暮らしている社会は、私たちが子どもだった頃とは比べ物にならないほどに色々な情報が溢れ、また、それらの情報をたやすく得ることができるようになった。例えば、育児に関する情報、教育に関する情報もそのひとつだろう。 おまけに、昔に比べて子どもの数も減り、更に生活は便利になり、ひとりの子どもに親がかけられる時間は、平均すれば随分と増えたのではないかとも思う。(もちろんあくまでも平均すればの話だけれど・・・) そうなると、愛する我が子のために、色々な情報を集める親御さんたちが増え、結果、昔なら少ない情報からの取捨選択でよかったものが、数え切れない情報からの取捨選択へと変わってきている面もあるだろう。 親御さんが熱心であればあるほど、いくらでも情報は集められるだろうし、集めれば集めるほど、どれを選びどれを捨てるかの選択に迷いが出るのも不思議はない。そうなると、子どもが悲鳴をあげるまで、あれもこれもいいと思うものを次々に与え始めるということも決して珍しいことではなくなるのだろう。 もちろんそれは親御さんが我が子を愛するがゆえのことに違いない。また、きっと子どもも大好きなお父さん、お母さんが自分のためにあれこれ考えてくれているということを敏感に感じ取って、それにこたえようとしがちでもある。 しかし、「いいもの」というのも、あくまでも個人個人の価値観によって判断されるものであり、実際、今私が知っている範囲だけでも、完全に相対する学習法が存在し、そのどちらにも支持者がいるということを考えると、完全に相対する2つを両方「いいもの」と判断する方だっていても不思議はない。 ただ、相対する2つのものを一度に与えた場合、多くの子どもはどちらも活かしきれず、結局努力しただけの結果を得られずに終わりがちでもあるように感じる。 例えば、よく効くといわれるお薬があったとして、よく効くからといっぱい飲んだら命に関わることだってある。あくまでも決められた量を守って、飲みあわせにも気をつけて飲むことで効果を発揮するのだろう。 結局、勉強にしたって同じようなことが言えるのではないだろうか。与えすぎは毒になる場合があるということだ。また、一緒に飲んではいけない薬があるように、同時にやってはいけない学習法もあるのだと思う。 そうなったとき、何を選んで何を捨てるかの判断は自分にしかできない。子どもが「子ども」である期間はそんなには長くない。おまけに少なくない情報が「○才までに・・・」とか「・・・では遅い」とかいうように、親御さんの不安をあおるものになっている。 個人的には「早くしないと間に合いませんよ」とか「手遅れになりますよ」とかいうセリフはどこか悪徳商法の勧誘のように聞こえてしまうのだけれど、これが愛する我が子のこととなると、いいものはひとつでも多く与えたいと思ってしまうのが親心なのだろう。 ただ、何でも早く始めればいいってもんじゃない。もちろん、そんなこと私が言わなくたって、親御さんたちは皆さんわかってはおられるのだろう。ただ、そのとき、早く始めるべきことがなんなのか、その情報すらもたくさんありすぎて、ある人は3歳までにと言っているかと思えば、ある人は6歳まで、またある人は早く始めてはダメと言っていたりもするわけだ。その判断はどうつければいいのだろう。結局、情報があり過ぎて、どこでどう決断すればいいのか、親御さん、そして私も含めた大人はわからなくなってしまうのだろう。 教育には「これが唯一の正解」なんてものはない。だからこそ、みんな悩むのだ。私自身もずっと悩み、考え続けていることでもある。(また続く予定です。) また、まだ流動的な方が若干おられるのと、既に体験申し込みをお受けしている方が若干おられるのとを考えますと、土曜日だけでなく、一旦全ての曜日の新規募集を休止させて頂こうと思います。 募集再開の目処は3月中旬頃を予定しておりますが、それもまたサイトでご案内致します。もしも3月中旬までにどうしても体験や見学をというご希望の方がおられましたら、4月からレッスンを開始させて頂けるかどうかが未確定になりますので、その点をご了解頂いた上で対応できる範囲でお受け致します。 このブログ、「日々の思い」にもたくさんのコメントを頂きました。そして、そのコメント数がちょうど1000件になったようです。 記念すべき1000件目のコメントはどうやらそらまめさんの今日のコメントと思われます。どうもありがとうございます。 |
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