防止とは?/ ノーローン
[ 492] 忘却防止。
[引用サイト] http://d.hatena.ne.jp/hatayasan/
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どうやら春の陽気に覆われて気温は上がるようだ。いくつか候補を考えつつ、土曜の雪乞いの集い*1で教えていただいたルートが楽しそうに思えたので6時起床のあと再び栂池へ。 ゴンドラで高度を稼いで、早稲田小屋から鵯峰のコル*2を目指す。昨日以上に晴れていて地形も明瞭。トレースもあるので高速道路を歩くよう。見覚えのある地形だと思っていたら2年前の雪崩講習会で実地訓練をした場所だった。*3 コルに到着、さてどこから滑ろうか。直接北斜面に飛び込んでしまうと1mほど切り立った崖をジャンプしてさらに急斜面をこなさなければいけない。これは今の自分には手に余る。もう少し西にあるピークからなら傾斜も適度でちょうどいい塩梅だろうか。 西のピークへ移動すると、読みどおりマイルドな斜面が広がっている。トレースの一切刻まれていないまっさらな斜面を雪に優しく包み込まれるようにふわふわ舞うように下っていく。賑わうスキー場のそばにこんなエリアがあったとは。刻んだシュプールを振り返って一人うっとり。 沢が狭まったところで尾根を一旦登り返す。トレースがなければ取り付きのポイントで迷いそうだが、この日は完璧なトレースに難なく導かれる。 若栗尾根を稜線散歩したあとは、1598ピークで頸城・戸隠の山々を心ゆくまで撮る。同じアングルだとわかっていても何度シャッターを切っただろうか。できることならいつまでも座ったままぼんやりしていたかった。同じルートを歩いていた長野のテレマーカーは景色を愛でつつビールを飲んだあとで滑り降りるとのこと。 そして最後の黒川沢もまた素晴らしい。雪こそ次第に重くなってきたが適度に斜度のある疎林がどこまでも続く。シュプールが多く残されているのを見ると、それなりに白馬ではメジャーなツアールートなのだろうか。*4 だが鼻歌交じりに滑っていると崖に出て行き詰まってしまう。途中で滑る尾根の選択を誤ったようだ。後から出発されたIWAさん一行に声をかけていただいて、自分がルートをミスしたことに気づく*5。 最後は堰堤の排水口を潜り抜けて林道を流すと白馬乗鞍スキー場のゲレンデに飛び出す。半日のツアーとしてはこれまでに体験したことのない充実したルート、来てよかった。 IWAさんには、ありがたいことに自分の車を置いてある栂池駐車場まで送っていただいた。最後までお世話になり、ありがとうございました。 多治見で回転寿司にありついたのは21時過ぎ。19号を名古屋市内まで下り、環状道路を通って国道1号線へ。日の変わる直前に桑名市内のコンビニ駐車場で力尽きると、気がついたときにはいつの間にか2時前。 *4:栂池スキー場から見て、鵯峰の裏側の斜面、との意味を込めてだろうか、このルートは「ウラヒヨ」「ヒヨドリ裏ルート」とも呼ばれているようである。 金曜の夜に家を出発。2月に開通したばかりの新名神高速道路を通って伊勢湾岸自動車道、東海環状自動車道を流して中央道へ。いつもと違うルートなら、気分も心なしか弾む。 6時起床、カップラーメンとコーヒーを流し込んで栂池スキー場の駐車場へ。朝7時前なら問題なくゴンドラ前の駐車場に車を置くことができた。 栂池8時発のゴンドラを使って山頂駅へ。ここから林道沿いに歩いて天狗原へ。彼方の八方尾根、五竜岳、鹿島槍が白く輝いている。まるで絵でも見ているようだ。 このところ運動から遠ざかり気味だったためだろうか、天狗原から白馬乗鞍岳への登りで早くもへろへろ気味。だましだましジグを切りながら斜面を詰め上がっていく。 やがて山頂へ。600mほど北に進んだところにもう少し標高の高いピークがあるが、風も強いので今日は三角点までにしておこう。岩陰に隠れて北東に向けて滑る準備をする。 白馬乗鞍岳の東面は一枚の大斜面。はるか向こうに斜面に取り付くボーダーや山スキーヤーの集団が見える。山頂からしばらく下った東面の中腹はなかなかの急斜面、一旦止まって深呼吸して飛び込む。日が当たってるが午前中の雪はまだ柔らかい。腰まで埋もれそうな斜面は切り崩すように一気に通過、斜度が緩んでからは名残惜しむように大きく斜滑降を繰り返して滑り降りる。 下山後は、いつか入りたいと思いながら果たせずにいた、猿倉への途中にある岩風呂の露天風呂「小日向の湯(おびなたのゆ)」へ。白馬八方温泉は毎月「8日」の日は半額の250円とのことで嬉しい限り。 白馬47スキー場麓の店に移動、ピザをつまみながら山スキーと白馬界隈の話題に興じる。アルコールが入ると時間が経つのが早いこと。 深く濃い山スキーヤーの世界があることを教えていただいたIWAさん、興味深いルートの話を聞かせていただいたMatsuさんはじめご一緒したみなさま、ありがとうございました。 たとえば自分自身を形づくる核のようなものがあってそれが揺るぎないように見えているとしても、その周囲にある感情のセンサーや思考のパターンは、身体がそうであるのと同じように絶え間ない変化に晒されている。 場に身を置いて空気を吸い続けるなかで、時には淀むように、あるいは堰を切ったように。情動や学びの起伏に応じて、旧い記憶は新しい記憶に押されて気づかないうちに入れ替わっていく。 忘れることなどありえないと信じて疑わなかったものが、ある日突然「そのように感じていたこともあった」と静かに横たわる過去として立ち現れるときがある。 はやる気持ちとともに心に刻まれる時間を過ごしていたとしても、少し時機を外すだけで文字に落とすことがためらわれたり、筆を止めたまま無為に過ごしてしまうことは、案外ありがちな話なのだろうか。 だから、楽しくて夢中になれることでもいつか忘れてしまうことがあると気づいたときこそ、価値を見出したものが何であったかを、もう一度見つめてみよう。 まわりの人と書くことが被っていても、以前似たような題で書いていたとしても、動機が自分自身の感覚に根ざしている限り、それを書き残す意味はある。 それが自分にとっては思考のかけらであってもかまわない。思いきってウェブに流してみれば、予想もしなかった気づきが得られることだってあるだろう。 次第に小間切れになっていつか思い出すことすらなくなるかもしれない記憶に向き合いながら、いつでも振り返ることのできる場を用意しておけば、安心して前に進み続けることができるはず。 「忘却防止。というブログがあるわけで、これつまり、忘れないように記録するよ、ということなんだろうけれど実際は逆だ。つまり、記録するということの意味、記録する理由は忘れるためである。」自分のブログを取り上げていただいたことを思い出しました。2006年10月。 同じURLを2度ブックマークすることはできないので、過去のブックマークコメントを編集する。おそらく一番簡便。 この場合、記事の本体に追記があって1回目にブックマークしたものと内容が変わっていることが認められない限り、URLを変えてブックマークするのはためらわれるかもしれない。 文章を引用するだけで自分のコメントをスターに載せることはできないので、一見縛りが強いと思うかもしれない。 でも、スターそのものは記事がそこにある限りいつでも何度でもつけることができる。同じところを引用してもいいし、違うところを引用してもかまわない。 「誰がどの記事にどのコメントを引用してスターをつけたか」は、毎朝レポートとしてその人の手もとに届く。 新着記事に上がってきたとき、他のブログで紹介されていたとき、検索したとき、ふと思い出したとき。 もし、以前は見過ごしていたメッセージや視点がそこから新たに見えてきたときは、自分の言葉を添えることはできなくても、琴線に触れた言葉をそっと星に重ねてみよう。 あたりまえのように思っていたことでも、立ち止まって深めてみれば思わぬ気づきが得られるのかもしれない。 たとえば、そのまま受け止めることが難しいことに遭ったときや、自分自身のありかに直接触れるようなものに不意にぶつかったときは、自分で自分の時間を止めることがある。 それは思考を遮ることでこころの安定を保とうとする本能のようなもので、ほとぼりが冷めるまで判断を保留することを無意識のうちに行っていると言い換えてもいい。 もちろん、その間何もしないわけではなくて、そのような時間は、いままで見てきたものを読み返し、振り返り、触れなおして噛み砕くまたとない機会を与えてくれる。 過去を咀嚼し、いまある姿を受け止め、その先を見据えるなかで、これまで築いてきた価値と訣別を強いられることが、ないとはいえない。 だがそういうときこそ、自分自身の意識を投じてきたものの傍にある、なんでもない日常に目を凝らしてみよう。 これまで記してきた自分の足跡を注意深く追っていれば、なにげなく接してきたものであっても意識や興味にそれぞれ濃淡があることがわかる。 きっかけが偶然だとしても、自分の意思に従ってほんの少しだけ勇気を振り絞ることができれば、あたりまえのようにそこにあると思っていたことに思わぬ奥行きや深みがあることに気づくだろうし、それがきっかけで自分の知られざる一面に出会うことだってあるかもしれない。 顧みることもなかった日常が鮮やかな色をもって立ち上ってくる強さを感じながら、自分自身の固執してきた価値が数多あるものさしの一つにすぎないことを受け入れることができれば、一人背負ったつもりになっていた頑なな壁やわだかまりは、徐々に取り払われつつあるとみてよいはずだ。 その先に何があるかなんてわからない。いや、わからないからこそ、ありのままの自分の声に静かに耳を傾けて、過去の記憶を頼りにしながら、まだ見えないけれど価値があると自分が見定めたものに触れるために、顔を上げてみよう。 それでもためらいがちなときは、顧みた日常から手にした気づきやきっかけを、心の片隅にそっと忍ばせておけばいい。 時には意味に立ち戻り、その都度それを確かめて自分を律することができるならば、覚束ない足取りながらも、再び歩き出すことができそうな気がする。 ちょうど1年前に書いた記事。「結果から見れば遠回りだったとしても、その「ときめき」がこれまで止まっていた時計の針を動かすきっかけになることが、きっとある。」なんだか既視感があるのは、考えていることがほとんど変わっていないからでしょうか。 |
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