取らとは?/ ノーローン
[ 350] (´-`).。oO(蚊取り線香は蚊を取らないよ) - livedoor Blog(ブログ)
[引用サイト] http://blog.livedoor.jp/tsubuanco/
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TBはご自由に。送られたら返します。原則として、当方より先に、言及リンクなしにTB送信する事はありません。 長嶋一茂プロデュース・主演による、地方町の郵便配達人を中心に繰り広げられるヒューマンストーリー。ケヴィン・コスナー主演映画や堤真一主演映画とは無関係だ。 日本の郵便事業が民営化された世相を背景に、新生・日本郵便事業株式会社の全面バックアップを得て製作されたと思しき本作、一茂と郵便局との利害関係は不明だが、長嶋ファミリーの持つブランドによる人脈の表れだろうか。 しかし、一茂演じる本作の主人公の、"ポストマン"としての仕事描写、職業意識は、民営化された事で利潤追求効率化が推進されるであろう現実とは正対する、古き良き昭和日本の"郵便屋さん"のそれである。 その姿勢を当初は時代遅れ、偏屈として描きながら、やがて皆が肯定していく様に物語は展開していくのは、確かにこの種のストーリーにおける王道ではあるが、郵便事業の現状や将来を示して一般にアピールするとの、本来の方向性にそぐうものではないだろう。 旧郵政省あるいは郵便幹部らの中にいまだ残っている、反民営化勢力の(表向きの)主張がクローズアップ、美化されている様にも感じられ、単なるPR映画の趣ではなくなっている、企画の不明瞭さが気にかかり、一体誰が得をするのかと首を捻らされる。 外回りの配達業務一筋で家族を養えるだけの収入が充分にありそうな正職員と、同じ業務内容で薄給そうなバイトとの、厳然たる格差構造も気にかかる。一応はバイトからでも本人次第でステップアップ出来ると匂わせているが、それがきれいごとでしかないとは誰でも知っているだろう。 ネットや携帯電話を用いたコミュニケーションが蔓延する現在において、手書きの手紙によるやりとりを再評価、美化する主目は一通りは貫かれているが、しかし劇中の描写において、ネット等による即時性の高いやりとりに、手紙の側には一体どの様なメリットが存在するのか、との疑問には応えないままに終わっている。 クライマックスに配達した手紙の真相が一旦のオチ的に用いられており、それ自体はクスリと笑えてじんわりと心温まる仕掛けとして有用ながら、そのやりとりをネットで行わない理由はどこにもなく、むしろネットを利用してリアルタイムでやりとりした方が、コミュニケーションを楽しめる筈だ。老い先短いのだから尚更(笑 まるでインターネットが存在しない世界であるかのごとく、都合良く設定された舞台において、固定電話すらほとんど使われないのでは、結局、そうした命題に解答を示す事を放棄し逃げたのではとすら思わされる。ネットだって人の手がなければ繋がらないし、郵便だってデジタル化や自動化を促進しているのだから、確たる優位性を見せつけるのは難しいが、それが出来ないなら本作の意味がないだろう。 先述のクライマックス配達シーンにて、手紙を手渡した直後に電話の呼び出し音が鳴る局面があるが、そこで普通なら、その電話の内容が本筋のストーリーに絡んでくると誰もが予想するところが、実際には何の展開も見せず、ただ人物をその場から退場させるだけの役割でしかない。しかもその退場に必然性はないのだから、わざわざ電話の存在を意識させた理由が不明だ。これでは主人公が無断行動をとりながら電話連絡すらしなかった事が、単に話の都合だとバレてしまうだけでしかない。 ストーリー上なくても問題ない割に長く差し挟まれる祭りシーンなどもまた、地方ロケの協力を得るためである事が明白で、大人の事情があからさまに前面に出る作為性は、家族愛や自己確立意識など、観客を楽しませる方面のテーマを薄れさせてしまっている。 自分の過去のトラウマによって暴走し、同僚はおろか家族や顧客にまで迷惑をかけてフォローなく、むしろ素晴らしい人だと褒め讃えられるに至っては、長嶋一茂の自分大好きオーラが画面にも映り込む勢いで苦笑させられる。 元エリート職員の背景や、局長の息子のエピソードなど、もうひと捻りありそうと思わせて中途半端なままの人物、事象も多く、どうにも食い足りない。 その様に、素材を充分に活かしきれていない不完全燃焼な構成は、メジャーな仕事が『北斗の拳 ラオウ伝』の連名クレジットくらいしかない、本作の脚本家・鴨義信が、一茂の天然によるアイディア提供に対応しきれなかった結果だろうか。 ハンバーグの伏線も、フリが行われた段階でオチまで読めてしまい陳腐。だが誤配の際に貰ったタケノコがさりげなく添えられているのは面白い。 本作はむしろ、そのタケノコの様に、脚本にはなかったであろう演出上の小ネタらの方にこそ、細やかな気配りや挑戦が多く見られ、感心させられる部分が多い。 映像演出として、序盤に局長が局内を移動するシーンにて、ワンカット内で移動の間を省略し場面転換を行う仕掛けが用いられ、後半の病院シーンでは、妻の闘病を見ていた過去の回想と、娘の安否を気遣う現在とを、主人公のアップを起点とする回り込み移動ショットを用い、シームレスな時間軸移動と説明、および主人公の心情描写を行うといった風に、同種の手法が多用、有為に応用されている事が見て取れる。 冒頭の、中年女性がポストに封書を投函するカットにて、その女性の退場を、画面横方向へのフレームアウトではなく、画面奥の畦道を去らせる事で、背景の奥行きを意識させて景色を強く印象づけ、クライマックスに再び同じ画角が登場した際に、ストーリーが繋がったと観客に認識させ安心させるといった、構成に必然となる工夫も良くしたものだ。 ラストカットとなる空撮映像も、現実離れした風景の美しさを、物語の余韻に上手く絡めており、どこまでも遠くへ引いていくカメラからは、小さな町の話ながら世界の広がりを感じさせるものだ。 長嶋一茂の演技は相変わらずだが、西の谷村美月に匹敵する東のふてくされ美少女である北乃きいは、主演作『幸福な食卓』同様に、同世代の少女の弱さと強さを的確に表現しており見事。脇を固める野際陽子、竹中直人、田山涼成らは、従来のステレオタイプに沿っているだけの感が強いが、主人公父子を引立てるにはその程度でいいのだろう。特に話に絡まず画面の端々に映っているだけな佐野夏芽の、にも拘らず醸される存在感も見逃せない。 とは言え、休日の昼間に単独スポンサーにて放送されていそうな、恣意性の強い内容を、広く劇場で公開してしまうのはどうか。むしろ地域の学校やゆうちょ会館などで、無料で公開されるタイプの作品だろうに。 木梨憲武が自転車屋役で出演している場面は、本来出オチに終わりそうなシチュエーションを、おそらくはアドリブが多く混じっているであろう彼のトークによって、充分な笑いどころ足り得ており楽しい。 コメディ俳優ウィル・フェレルと『バス男』ジョン・ヘダーがフィギュアスケートのペアを組む、スポ根コメディ映画。邦題は過去にウィル・フェレル主演した『俺たちニュースキャスター』から派生したものとは言うまでもない。 現実の有名スケーター達が何人か出演している事からも、おそらくはアメリカのスケート業界のバックアップあるいは承認を受けていると推測されるが、実際にはスケート業界の裏側、内幕をブラックに皮肉る様なギャグばかりが用意されており、"洒落のわかる大人"の仕事と感心させられる事しきりだ。 "夢"と"商業主義"とがせめぎ合う存在である、大会マスコットキャラクターの扱いにまず、そのブラックな皮肉が文字通り象徴されており面白い。序盤の大会では火だるまになってオシマイだったものが、最後の大会のキャラクターはしっかりリベンジを果たしているあたり、ギャグを繰り返して発展させる基本に忠実だ。 表彰式で乱闘した選手に処分を下す場に、現実に過去ハーディングと揉めて話題になったケリガンを登場させるなど、単なるサービス出演ではなく、ネタとして機能させているのも見事。そしてそんな役を受けてくれた本人もまた、"洒落のわかる大人"なのだろう。一方で名前しか登場しない人物の扱いがクソミソなあたり、おそらくは出演を断られた意趣返しであろうと推測させられ、また苦笑ものだ。どちらに転んでもネタに利用してしまう貪欲さが素晴らしい。 ライバルペアの存在も含め、業界内をどちらかと言えばマイナスイメージの強い風に描いておいて、単なるブラックギャグ要員として出オチと思われたストーカーが、物語そのものに意味を与える重要な役割を演じ、エンドロールの締めまで行ってしまうなど、とことんスケート界を笑いものにしつくす意地の悪さが徹底している。 そうした小ネタ関連の意識徹底は見事なまでだが、ではストーリー的な面、特に主人公二人の心情的な変遷はどうかと見れば、こちらはかなり徹底が足りず、芯の通らなさを感じてしまうのが辛い。 最初は反目し合っていた二人が、いつしか認め合って最強ペアとなる、という王道を描くには、転機およびそれが必然となる前段を描いておかなければ、そういう話だからそうなるに決まっているのだと押しつけている事にしかならない。 本作はそれが顕著で、ペア結成初競技の際に、転んだジミーにチャズが手を差し伸べる局面が、"転機"として配置されているが、その時その場で"認め合う"必然を生むための、前段となる振りがそれ以前にあまりに不足し、むしろ近づけばケンカしている描写ばかりが印象に残っているため、唐突すぎるのだ。 そこで観客に「いきなりかよ!」と突っ込ませるアメリカンギャグを狙っているにしては、前後のリアクションがあまりに普通すぎ、笑うところなのか感動するところなのか、判断に困らされてしまう事となる。 最後の試合のピンチから大技成功の流れにしても同様に、スポ根友情モノの体で見せるにはマヌケで、バカバカしいと笑い飛ばすにはマジメで、結局、バカに徹するわけでも努力と友情の感動に徹するにも、どちらの側も中途半端でメリハリがない。 これはあるいは作り手側の中に残っていた迷いや照れが、そのまま現われてしまったのだろうとも推測され、その事はオチの文字通りの投げ出しっぷりからも見て取れる。 認め合う転機が唐突なら、女性絡みの仲違いからの復帰もまた唐突で、チャズが誤解を解こうと何度も電話する描写は面白いが、結局その電話を聞く事なしに和解したのでは、ギャグとしてもストーリーとしても構成の筋が通っていない。トイレで真相を聞かされたにしても、現場で実際にチャズがケイティの乳を揉んでいたのは事実なのだから、そこに対してのフォローをギャグとして展開する事も可能だった筈だ。 終盤にて、チャズの足を応急処置している女性医療スタッフの、大きく開いた胸元を映像として強調しながら、チャズが全く無反応だったのは、おそらくは大技の成功とペアの昇華によって依存症を克服したという意味なのかもしれないが、少しわかりにくい。 と、ストーリーやメリハリには問題が多く、素直に楽しむには引っかかる要因となってはいるが、秘技練習で人形の首を何度も斬ってしまう場面で、その人形の顔がわざわざジミーに似せてあったり、セックス依存症コミュニティの会合帰りに絡み合うメンバー達の中で、一人だけ単身オナニーしていたらしき男がいるなど、劇中の誰も突っ込まず流してしまう"ボケ"を見出してクスクス笑う楽しみは、充分に得られるだろう。 と言っても、あくまでもシニカルギャグなためクスクスニヤニヤ止まりで爆笑とまでは行かないのが実情。チンコネタで笑うのは小学生までだろう。劇場で無理から大声を出して笑って、「ここで笑えるオレってイカすだろ」とでも言いたげな、空気の読めないオナニーマンは、存在自体が迷惑なので家から出ないでほしい。笑い方にもセンスは要求されるのだ。 アニメ世界のお姫様が、実写の現実世界へ迷い込んで起こる騒動が、おとぎ話アニメーションの本家であるディズニー自身の製作により、セルフパロディ的に描かれる、実写アニメ混合映画。 フィクション世界の住人が現実世界へ現われて、認識のギャップにより騒動が起こるといった話そのものは、古今東西に数多く存在するものであり、アニメ(絵)をそのまま実写に置き換えたビジュアルギャップでまず、ファーストインパクトとしてのおかしさを表現する手法も同様。 フィクション世界の荒唐無稽さを現実と照らし合わせてギャグとし、現実はそんなに単純なものではないとフィクションキャラクターに突きつけつつ、現実側の人間もまた、フィクションキャラの純粋さに感銘を受けて自分自身や現代の価値観を見つめ直す、と展開するのもまた、同ジャンルにおける定番パターンである。 本作、基本的にはそのパターンを忠実に踏襲しているため、意外な事は何一つ起こらず、笑いもまた極めて予定調和的なものばかりで、大枠自体は特段に評価すべきところはない。だが本作を製作したのが他ならぬディズニーである事で、細かい部分での仕事の徹底には、目を見張るものがある事も確かだ。 冒頭に展開するアニメーション世界のパートの、エフェクトとしてCGを使いながらも、基本的にはセルアニメーションで作られた、古き良き時代のディズニーを再現した映像は、本作の狙いに沿ったものとして上質。画面内の動物達の細かい動きの演出や、意図的にステレオタイプに作り込まれた人間キャラクターの造形、演出等、セルフパロディ作品として的確な仕事と言える。 一方の実写パートでは逆に、現代のCG特撮技術の粋を尽くした映像にて動物やモンスターを登場させ、見た目よりまず製作手段の違いを見せつけられる事で、両世界のギャップおよび作品のあり方を提示している。 現実世界で動物を操る事、いきなり歌って踊り出す事などを、当初は奇異な現象、ふるまいとして、リアリスト弁護士の視点を通じて見せつつも、それはあくまでも彼からの一面的な観点によるものでしかないのだとすべく、弁護士の恋人のロマンティストぶりや、セントラルパークでのミュージカルシーンを配置している、このバランスの取り方は秀逸。 その場で歌や踊りに違和感を抱いているのは弁護士のみであり、それ以外は皆喜んでミュージカルに参加している光景を、パロディを交えて時間をかけて見せる事で、"アニメを現実に持ち込むとおかしい"なる単純で底の浅いものの見方ではなく、決しておかしいだけではないと表現している。これは、現実世界に夢の国であるディズニーランドを作り出した、ディズニーならではの解釈と表現と言える。 姫の影響で愛や夢を尊重する事を受け入れ始める弁護士と、弁護士の影響で現実を受け入れ始める姫を、両端から接近していく図式として用い、その過程として離婚夫婦の和解を用いるなど、あくまでも両方の価値観を尊重しながら物語を進めているあたりに、単純な自虐パロディに終わらせようとしない、ディズニーの矜持が見られる。 舞踏会をキーファクターとし、姫はそれをアニメ世界に帰りたくない言い訳として用い、衣装や髪型も現実的なものと変える様で、彼女の思想、価値観の変化を表現し、一方で弁護士の恋人ナンシーは、舞踏会をロマンティックな場として素直に受け入れ、王子の言葉を評価する、と、二つのカップルが交錯していく起点を、わかりやすすぎるながら上手く描いている。ナンシーの顔がいかにもディズニーアニメ調な時点で、最初から彼女がどうなるか予想出来てしまうのは、笑えつつも惜しいが。 ドリームワークスの『シュレック』の様な、ディズニーアニメの価値観や様式を悪意を持って皮肉るブラックパロディとは異なり、価値観を嘲笑うわけでも、逆転させるわけでもなく、おとぎ話の単純構図化された"真理"を尊重し、その上で現実を生きる事が、幸せに繋がるのだとしている本作、分別ある大人に向けた夢物語として心地いいものだ。 「いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」に疑問を投げかけるパターンかと思わせつつ、結局最後は現実アニメの両方がそれで終わってしまうあたり、ディズニーとしての頑なコダワリを感じられもする。 と言っても、やはり特別な事が何も起こらなすぎる、予定調和に徹しすぎたストーリーは、パロディや小ネタのディテールだけで楽しみつくすには苦しく、これで満足とはいかないが。 それにしても、『X-MEN』『スーパーマン・リターンズ』そして本作と、ジェームズ・マースデンが恋人かっ攫われキャラに定着してしまっているのが何とも笑える。『ヘアスプレー』とも併せ、古臭いイケメン顔としても定着しつつあり、もはや彼自身が出オチと化す勢いだ。 ボクシング好きなら知らぬ者はいない、関西を代表するボクシングジムのひとつ"森岡ジム"の創設者にして、1968年メキシコオリンピックにてバンタム級銅メダルを獲得した伝説のボクサー・森岡栄治の人生を、彼の甥である映画監督・森岡利行が綴った追想記『路地裏の優しい猫』を原作に、同氏の脚本・監督により映画化。 森岡栄治を描くための作品でありながら、彼を主人公とするのではなく、彼の幼い娘・治子(藤本七海)の視点をメインとしているのが、本作の特徴であり成功要因だろう。 この治子を、リアル『じゃりん子チエ』とも言うべき"ダメ父に呆れ返る醒めた子供"としての一面を基本とし、いじめっ子男子を一撃必殺でKOするなど『リングにかけろ』の菊姉ちゃんを髣髴とさせる、心身ともにやんちゃキャラとしてまず描き、キャラクターとしてわかりやすい魅力をストレートに提示して、観客の視点を彼女の側に振る事に成功している。(姉が強気で弟が甘ったれという図式が『リンかけ』そのもので笑える) その上で、親に対する愛憎入り混じった心情の機微や、好きな男子に対するほのぼのでツンデレな恋模様への感情移入や共感を生み、素直な笑いと感動に繋げるべく機能している。 森岡監督は、リアルとディフォルメを巧妙に混淆させて魅力ある少女キャラクターを作り出す能力に長けている事は、本作にも出演している黒川芽以主演の『問題のない私たち』の頃から顕著であり、今回の治子の造形にも、そのセンスは如何なく発揮されている。 森岡栄治のボクサーとしての"栄光の日々"は早々に説明だけ済ませ、その後の転落していくダメ人間人生を物語の中心に置いている本作、筋書きだけ追えばかなり悲惨で救いのない(人も死ぬ)話にも拘わらず、むしろユーモア溢れる感覚が全編を支配しているのは、先述した『じゃりん子チエ』にも共通する、大阪という土壌や大阪弁の持つ、ポジティブな空気のなせる業だろう。 その絶妙な空気を作品内に再現出来たのは、監督自身が大阪で生まれ育った事に始まり、藤本七海や紺野まひる、あるいは山崎邦正、喜味こいし師匠、赤井英和ら、大阪ネイティブの出演者を多く揃え、それ以外の俳優達にも、監督自身がこだわりぬいて"大阪人"を演じきらせた、最近の関西発映画に共通する徹底した姿勢があってこそとは言うまでもない。(ちなみに広末涼子は高知出身ながら何故かデビュー当初から関西弁トークが上手い) 犯罪者の肉親やヤクザのパトロンといった、普通は隠してしまう様な"裏"の部分さえも、それにまつわり起こる悲劇や惨劇さえも、引くどころか笑えてしまうべく徹底した作劇は、自虐ギャグを恥と思わずむしろ好んでやりたがる、関西人特有のお笑い気質が存分に活かされたもので、決して不幸自慢に終わらないそれが、本作の独自性を強め面白さとしている。そうして繰り広げられる、「アホ」「死ね」の言葉が家族間でも普通に交わされる"自然な光景"が何より微笑ましく、不幸な話が全くそう見えないのだから素晴らしい。 先述の、治子がいじめっ子をKOする場面や、栄治の試合場面だけでなく、高校時代の栄治が番長グループ(笑)と乱闘するシーンなどアクション映像の迫力は、バイオレンスVシネを手がけている監督だけに手馴れたもので、その中にも決してコミカルさは忘れない配慮も徹底されており、似た時代の京都での不良のケンカを題材とした逆ギレ映画などよりも、ケンカ場面としての完成度は大幅に上だ。 その高校時代の描写にて、武田真治やケンカ相手の唐渡亮がそのまま高校生役を演じているのも、笑えるが違和感はさほどなく、紺野まひるのセーラー服姿に至っては、彼女の美しさを再確認出来る貴重な映像と言える。ファンならずとも必見。(子供を置いて別れる前妻、という役どころが『暴れん坊ママ』と同じなのも面白い。と言うより、家族の構造そのものが『サイドカーと犬』と非常に似ているのは偶然だろうか。何せこちらは実在家族である。閑話休題) のだが、基本的には治子の視点をメインとしつつ、後妻(広末涼子)や兄(山崎邦正)とのエピソードなど栄治の視点で描かれる場面がところどころに挿入される事で、物語がどこに向けて進んでいるのかが曖昧、散漫となっている感が強く、全体としてのまとまりに欠け、興味が最後まで持続し辛いのが難。肉親だからこそいろいろなエピソードや人物を詰め込みたかったとは思うが、一歩引いた非情な"取捨選択"が欲しかったところ。 ずっと治子の視点のみで通していれば、刑事の口から語られる"取調室"のエピソードの特異性が引き立ち、その場面を後出しにした意味が充分に活きた筈だ。 その取調室シーン、やたらとカルシウム不足な柔道刑事の、オーバーすぎるリアクション演技に興醒めさせられるマイナス点も気にかかり、せっかく素直に泣かされた葬儀場面の感傷が目減りしてしまうのも勿体ない。笑いから泣かせのギャップを作ろうとして、やりすぎてしまったか。 と、いろいろと気になる部分もあるが、総じては大阪らしい優しい笑いで幸福感に包まれる、良質の人情コメディ映画であり、森岡栄治や森岡ジムを知らずとも、誰が観ても楽しめる一品だ。 藤本七海、黒川芽以、広末涼子、紺野まひる、宝生舞らにとどまらず、担任教師役の長澤奈央、同級生役の市川美織など、子供から大人までビジュアルと演技力を兼ね備えた豪華女優陣が揃っているあたりにも、『問題のない私たち』同様の監督のこだわりを強く感じさせられる。 監督がTVドラマ出身だからか、『24』に代表される、とにかく後出し後出しで興味を惹き続けるタイプの作風となっているが、その手法そのものが本作の特色である事には相違ない。と言うよりも、情報を後出し後出しにする事のみで作品を成立させていた『メメント』同様、その構成トリックだけが見ものと評しても過言ではないだろう。 同じ数十分を別の視点で何度も繰り返す構成をとっている、本作の手法自体は、最近の邦画でも『XX 魔境伝説』や『東京少年』などに用いられている、既に定着したものであり、特別に斬新というわけではない。また、あくまでも現実の事象に対し、主眼を置くポイントを変えて繰り返していくもので、最近のアニメ映画『リトル・レッド』など、いわゆる『羅生門』スタイルすなわち各人物の"主観"による"証言"にて真相が露呈していく手法とは、ジャンルとしても意味合いは異なる。 基本的には、先に決めておいたストーリーを、興味の惹きどころを考えながら、大切な情報が後回しになる様に並び替えたものだ。だから時間軸の相互関係に破綻がないのは当然だが、その並べ替えによる興味の持続は的確で、少なくとも、劇中に登場する犯人グループが全員出揃うまでは、飽きる事はないだろう。 時間を巻き戻す時、視覚的にもそのまま巻き戻しの映像を見せるなど、テレビ出身監督ならではの、わかりやすさを重視した演出や作劇もありがたく、短い時間に多くの人物が登場しバラバラに慌ただしく動くストーリーながら、誰が誰かわからなくなる事がない配慮も感じられる。ただ、わかりやすさを考慮するあまり重複が多い事が気になるが。 各人物における、中途半端に言及される過去や背景にはあまり意味がなく、あえて多くを語らない事で破綻を無くす工夫もまた、わかりやすさと想像の余地を両立させたもので、政治的なイデオロギーは控えめに、あくまでも娯楽に徹する姿勢の一環だろう。下手に人物を掘り下げ始めると収拾がつかなくなり、その分ツッコミどころも増大するのだから、劇中時間のみに焦点を絞りきった方向性は正解。 テロ側だけでなく大統領側にもあった秘密が明らかになる展開は、それを明かすタイミングも併せて上手く、愛しあっていると見えた男女が、視点が変わるごとに意味も変わっていくシチュエーション設定などは、構成トリックを最も効果的に活かしており秀逸。背景説明がない事も効果的だ。 正義を気取るテレビレポーターが、実は野次馬の代表でしかないのだとでも皮肉る様に取り乱し、アッサリ死ぬくだりなどからは、ブラックな狙いが感じられ楽しい。ソニーのカメラが大活躍するのは露骨で苦笑ものだが。 とは言え、警備やカメラにおける御都合主義な展開など、肝心の犯行においてツッコミどころが残されているのは、悪い意味でテレビ的な安易さとも言え、良くしたものとは言い難い。 そして、後半のクライマックスとして用意されているカーチェイス場面だが、これは評価し難い。後出し情報で引張ってきたストーリーは、この時点でほぼ全て、結末以外は終わっているのにも拘らず、延々とカーチェイスを続けてしまうのは、ストーリーを停滞させているとしか感じられず、画面内の慌ただしさとは正対に極めて退屈でしかない。自爆シーンの様な、事件の事象そのものを、それが起こるとわかっていながらそれに至る描写から目が離せなくなるといった場面演出は上手いだけに、そうした方向でクライマックスを盛り上げるべきだったろう。 これが『ボーン・アルティメイタム』のカーチェイスの様に、それ自体が緊張感と娯楽性を増幅させるだけの映像演出がなされているのなら別だが、ただ走り回っているだけでは「いいから話を進めろ」と思うだけで少しも盛り上がれない。もちろんこのカーチェイスは、結末に結びつく一つの構成要素ではあるが、それだけの役割にしては無駄に長過ぎるのだ。この冗長さがなければもっと評価は上がっていただろうから、欲目をかいてしまった事が惜しまれる。 とは言え、ノンストップ娯楽アクションとしての完成度は、先述の『ボーン〜』には到底及ばないものの、二線級のお手軽娯楽作品として、『24』や『LOST』でも観るのと同様に臨めば楽しめる筈だ。あまりハードルを上げない方がいい。 |
[ 351] X51.ORG : 年を取らない少女 米
[引用サイト] http://x51.org/x/05/05/1451.php
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【Local6】米メリーランド州ボルチモアに住むブルーク・グリーンバーグちゃんは現在12歳の少女である。しかし、彼女の身体、そして精神は生後六ヶ月ほどの段階(体重5.8kg,身長43cm)で成長を停止したまま現在に至っている。医師によれば、現在こうした症状はブルークちゃんの他には世界的に例がなく、まだ病名さえも存在しないという。彼女の担当医ローレンス・パクラ医師は次のように語っている。 「彼女の身長、体重は生後6ヶ月から12ヶ月の人と変わりません。もし何も知らない医師が彼女を診察したら、2歳程度の障害児だと見間違えるでしょう。」 彼女の身体はまるで年齢を重ねていないにも関わらず、その健康状態は年々悪化してきている。彼女はチューブから食物を摂取し、発作を起こすこともある。また潰瘍や呼吸障害、レモン大の腫瘍を患ったこともあるのである。またこれまで4度に渡り、瀕死に陥ったこともあるが、その都度息を吹き返しており、その原因もまた不明であるという。 パクラ医師によれば、ブルークちゃんは強い自意識と、兄弟達に対する競争心を持っている。言葉は全くしゃべれないが、自分でベビーベッドに掴まって立ち上がったり、床で身体を這わすようにして移動することは出来る。 「彼女の成長ぶりをみるならば、いくら彼女が障害を負っていようとも、すばらしい世界がそこにあることを我々に教えてくれます。」 2げっつ?・・・昔、失恋して、精神に異常をきたし、ずっと相手の男性を強く思い続けていたために、いつまでも20代の若さを保ち続けた、なんて話も聞いたことがありますが・・ 小犬とか子猫は大きさもそうだけど、そのしぐさがかわいくて飼う(買う)ひとが多いから、研究が進んでいつまでも子犬や子猫ができたら大儲けできそう。 20年以上前の話だけど、知り合いが同じような症状の人の世話をしたことがあるって。ベビーシッター?のバイトだったんだけど、その人は見た目まったくの赤ちゃん(生後1歳位)で、喋れないし立てないんだけど実際は20歳超えてたらしい。でもやっぱりよく見ると肌とかに赤ちゃん独特のツヤとか白さがなくて、ちょっと浅黒くてカサカサしてたらしい。あんまり詳しくはきける詳しくは感じじゃなかったらしけど、彼の母親が『死んだら解剖させてくれって大学から言われてる』と言っていたそうです。日本国内の話です。 彼女の場合なんかは、たった一人の特異な症例とされてしまえば、現代医療がどれだけ本気で取り組めるのか疑問だよ。 喋れないし、そのときは泣きもしなかったけど声は発したらしい。低い男の人の声みたいだったって。外見赤ちゃんなだけに相当不気味だったと。 ちょっと言い方が悪いかもしれないけど、こういう子供がいるってことは、少なくとも人間には不死とまでいかずとも不老の可能性はあるってことは言えるのかな? 「彼女の成長ぶりをみるならば、いくら彼女が障害を負っていようとも、すばらしい世界がそこにあることを我々に教えてくれます。」 ちょうどマイナスイオン風呂やトルマリン・ペンダントのようなものです。疑似科学と言われても否定は出来ないでしょう.... PROMOTIONS?見たことのない未知の世界を映し出すCCDカメラを搭載あまりにもチャレンジャーなぜかロシア人が混ざってる日米パイパン摩擦ウェブカム越しに愛想笑い全く話しがかみ合わない金髪桜満開!ビデオチャットライブチャットで気まずい沈黙気の向いたときにスイッチオン!”ハケで一塗り”して2、30分嬉嬉(ひぃーひぃー)は大きさが小さく、価格もかなりしますアイスキャンディのようなキュートな見た目アニマルマスク白馬遊びながら、なんと日本の歴史が勉強できます |
[ 352] 第1回:社員に取らせたいIT資格:ITpro
[引用サイト] http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20061208/256385/
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公的IT資格の受験者数が減少する中、逆にソリューションプロバイダの公的IT資格への評価は大きく高まった。主要企業75社の人材開発担当者の大半が、取らせたいIT資格として公的IT資格を挙げた。ベンダー系のIT資格も、営業効果に対する評価は高い。その半面、資格取得時の一時金は公的資格より減額する企業が増えるなど、ベンダー系資格の拡大に警戒感も出てきた。案件が増加局面を迎えたことを反映して、IT資格にメリハリを付けようとする実態が浮き彫りになった。 図1●社員に取らせたいIT資格主要ソリューションプロバイダ75社が回答。10件以上の回答を得た資格のうち上位10資格を掲載した 「受注したシステムに不具合が生じても、自身では対応できないSEが増えた」(日本ユニシスの村上拓史人材育成部HR戦略推進室長)。 原因は、現場で活躍し始めたSEが、プログラミングの実装を経験してこなかったことにある。ここ数年、下流工程の外部委託を推し進めてきたツケが、今になって回ってきた格好だ。日本ユニシスは急きょ、下流工程の知識を叩き込む研修とIT資格試験を組み合わせた教育プログラムを導入した。 「人が財産」であるソリューションプロバイダにとって、人材開発担当者が抱える課題は尽きない。上向きの景気が続いたことで案件が増加し、以前から懸念されていたプロジェクトマネジャーなどの人材の不足は、ますます深刻度を増している。 日経ソリューションビジネスが実施した「IT関連資格の有効性に関するアンケート調査」からは、こうした状況を反映して「社員にIT資格を取得させたい」という人材開発担当者の強い意欲が浮かび上がった(図1)。上場企業など主要ソリューションプロバイダ132社にアンケートを送付し、75社(有効回答率57%)から回答を得た。その回答結果によると、技術職/営業職に取らせたいIT資格の支持率が、1年前の前回調査から急上昇したのだ。 例えば、「情報処理技術者試験プロジェクトマネージャ」は前回調査と同様に技術職に取らせたい資格の1位だが、支持率は63%と13ポイントも高まった。また、やはり前回調査と同様に営業職に取らせたい資格でトップの「情報処理技術者試験初級システムアドミニストレータ」も、支持率を6ポイント上げ 39%に伸ばした。 「ソリューション営業」サイトは、ITの提供者だけでなくITを活用し成長しようとする企業向けの情報を加え「成長企業のIT活用」に生まれ変わりました。 製品&サービス・ディレクトリ業務アプリケーション設計開発OS/DB/ミドルウエアサーバー/ストレージ |著作権・リンクについて|個人情報保護方針/ネットにおける情報収集/個人情報の共同利用について|サイトマップ| |
[ 353] 【詳報:PS3量産遅れ】「リスクを取らなければイノベーションはない」と久多良木氏:ITpro
[引用サイト] http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20060906/247387/
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米国では11月23日に「Thanks Giving Day(感謝祭)」と呼ぶ祝日がある。この時期からクリスマス商戦が始まることもあり,この時期に発売できないと痛手が大きい。9月末に量産を始めた完成品は,まず米国市場に向けて優先的に輸出する。日本ではソニーの木更津工場,中国ではEMS企業などが量産を請け負うが,米国への輸出のロジスティック確保が悩ましい問題だ。PS3は本体だけで5kg,周辺アクセサリを含めると7kgになる。これだけの重量の商品を米国に全数空輸すると,コストが見合わない。船で送ると時間がかかる。今回の量産遅れによって,この輸送計画をいかに立てるかがポイントとなる。発売日までに米国に40万台を出荷,その後は週に10万〜20万台で供給する予定という。 では,SCEお膝元の日本市場はどうか。11月11日の発売時には,10万台の確保が精一杯のようだ。その後,年末までに週に10万台程度を日本市場に向けて出荷する。この結果,当初は年末までに世界市場で400万台という目標を掲げていたが,日米市場分を合わせて年内の出荷台数は200万台程度になる見通しである。 残念ながら,世界同時発売は実現できず,欧州市場におけるユーザーが最も待たされることになった。その理由は,製造地からの距離が遠く,適切なロジスティックの確保ができなかったことが第一に挙げられる。加えて,ソフトウエア・ベンダーの対応も,どうしても欧州市場向けの製品は後手に回りがちだ。多くの言語に対応する必要があるからだ。欧州向けの製品出荷は2007年1月以降になる。輸送には船を使う。欧州市場分100万台を確保できる3月上旬が,再設定される欧州発売日となりそうだ。 SCEは,ソニー白石工場に半導体チップの量産を委託していた。半導体チップの実験試作および量産試作までは何ら問題がなかったという。ただし,複数の「炉」で製造を開始しようとした7月ころ,一部の炉では高い歩留まりを確保できるものの,他の炉では安定して量産できないという問題が発覚した。製造炉の違いに対応して製造装置のパラーメータを調整する作業に手間取り,ここに来てようやく,その調整方法が確立しつつあるという。「1カ月の量産遅れですむメドが立ったことから,今回,発売遅れの経緯と今後の見通しについて発表することになった」と同社は説明する。 日立製作所 エンタープライズサーバ事業部 サーバー統合成功のシナリオ 〜ブレードサーバー選定のポイント 野村総合研究所(千手インフォメーションセンター) コストメリットに優れた運用管理ツールの導入が監視サービスの展開を支える 松下電器産業 パナソニック システムソリューションズ社 i-Proシリーズが牽引する映像監視セキュリティの進化 リサーチ・イン・モーション・ジャパン 使い勝手の良さと強固なセキュリティでモバイル・ワークスタイルを変革 製品&サービス・ディレクトリ業務アプリケーション設計開発OS/DB/ミドルウエアサーバー/ストレージ |著作権・リンクについて|個人情報保護方針/ネットにおける情報収集/個人情報の共同利用について|サイトマップ| |
[ 354] プログラマに電話を取らせるな - shi3zの日記
[引用サイト] http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20070813
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それはどんなに厳しく鍛えられ、育て上げられた軍人でも、ひがないちにち2chに明け暮れているNEETでも同じだけ不注意というものを侵します。 不注意というのは、要するに本人が自覚できないときに発生する、いわば心理学で言う閾下現象に近く、これはどんなに訓練しても本人が完全にコントロールすることは難しいのです。 例えば僕は自分ひとりでスケジュール管理をしていたとき、よくアポイントメントを忘れたり、ダブルブッキングしたりしていました。 99%のスケジュールは全てオンラインで接続されたスケジューラに入力するのですが、1%のスケジュールは口頭で聞いたり、電話口で受けたりして、しかもそのとき運悪く電波の届かないところにいたり、スケジューラにアクセスできない状態があったりして、聞き漏らしたり、適当に処理したりしていると、そのうち10%くらい、つまり全体の1/1000くらいのスケジュールはバグってしまいます。 これで完全にスケジュールが破綻してしまって、ダブルブッキングはおろか、トリプル、クアッドといった、普通では考えられないようなスケジューリングミスをするようになってしまいました。 これを解決するために僕はひとりで全てを管理するのを諦め、人を雇ってスケジュール管理の責任をその人に分離するようにしました。 その後どんな場合であっても、口頭でスケジュールを受け付けたり、スケジューラなしでスケジュールを入れたりといったことはしなくなり、ダブルブッキングはほぼなくなりました。 今回、僕らがとても致命的なミスを頻発させたのも、99%はきちんとした手順に従って対応させていただいていたのですが、残りの1%以下の部分で非常に致命的な問題が発生していたことが原因だと思うにいたりました。 こういう会社の場合、たとえば案件ごとに担当プログラマが決まっていて、しばしばクライアント様やパートナー業者様とプログラマが直接やりとりをさせていただいたりすることがあります。 それまでプログラマがなんらかの修正依頼を受けた場合、案件が少なかった頃はプログラマが自分でチェックをしてから作業完了のご報告をする、というフローでほとんど問題ありませんでした。 そうなると、プログラマはいまどのサイトの作業をやっているのか、そのサイトの作業に関してどんなことに気をつけるべきだったかを全て把握しなければなりません。 これは非常に大変な仕事で、現場からは「次からは気をつけます」とか「気を引き締めます」という気合ベースの報告をもらったり、管理サイドからは「練度を上げるために社外研修機関に研修に行かせたい」という報告をもらったりしました。 そこで結構なコストをかけて社外研修機関へ研修に行かせたり、叱責したりを繰り返していたのですが、なにしろ出来る奴ほど沢山の仕事を抱えますし、そして出来る奴ほどうっかりミスをするんです。 彼らの名誉のために、間違いなく言えることは、彼らに仕事をサボってやろうとか、いい加減な気持ちでやってやろうとかという考えは微塵も無かったということです。 仕事をさぼってやろうと思っている人間に対して「しっかりやれ」と言うことはできますが、そもそも仕事をサボってやろうと思っている人間をいつまでも雇い続けているのは経営者として失格です。 仕事を人並み以上にこなしてやろうとするからこそ、集中力が高まるからこそ、意識の外にある作業をするとミスが起きるのです。 作業効率が高い人ほど頻繁にミスをします。それは要するにサイコロを振るのと同じで、サイコロを振る回数が多いほどミスも増えるのです。つまりミスの発生率は定確率に近いのです。 そのときに不意に電話がかかってきて、「ちょっとこのあたりをこう修正して欲しいんだけど」と要請されます。 そのとき、ちょっとデキるプログラマならば、要望を聞いた段階で「ああ、あの部分をこう変えればいいんだな」と思いつきます。 しかし、問題とする部分は動いても、それ以外の部分が完璧に動作しているかどうかは誰にもわかりません。 しかもこの問題の場合、プログラマが直接電話を受けて直接対応しているので、営業もテスト部隊もどんな修正がなされたかを全く把握できていません。 案件が少ないうちは顕在化しなかったのですが、案件が増えてくると如実に目立ってくるようになりました。これは大問題です。 致命的なミスに至る前にこれを把握するには、まず要望の入力と出力をプログラマから分離する必要があるという考えに至りました。 そこで、サンディエゴにいるときに、「なんとしても、プログラマに絶対電話を取らせるな」という話をしました。 「万に一つでも再び同じミスを犯したら、顧客からの信用を永久に失い、うちの会社は二度と業務を遂行できなくなる」と。 最終的に水野君が開発フロアにある電話機を物理的に回収し、鍵のついた棚に放り込み、業務時間外は電話の鳴るフロアへのプログラマの立ち入りを全面的に禁止するという措置をとりました。 また、修正依頼や作業依頼の管理方法を全面的に電子化し、クライアント様とリアルタイムに共有できるように業務フローを変更。作業開始と作業完了報告は営業とテスト部門の双方で把握し、営業が指示するまでは作業に入らない、テスト部門が客観的なテストを終了するまでは本番サーバに反映させない、作業完了報告をしない、という体制に変えました。 これは大きなオーバーヘッドとなりますし、業務効率は落ちます。ひいては利益を圧迫し、一時的には赤字になるかもしれません。 それが第一義であり、そのために必要なのは根性論ではなくて実際的な組織改革であり、問題に即した組織の変革であるのではないかと思います。 |
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