理論とは?/ ノーローン
[ 1147] 萌え理論Blog
[引用サイト] http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/
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自民党は、福田総理大臣が児童ポルノへの対策を強化する考えを示したことなどを受けて、党内に小委員会を設置し、児童ポルノを所持すること自体を罰則を設けて禁止する方向で検討を進めています。児童ポルノについて日本ユニセフ協会は、実写だけでなく、アニメや漫画、ゲームなども規制の対象にすることを求めています。 「財団法人日本ユニセフ協会」(国連ユニセフとは別の天下り団体)が児童ポルノ法キャンペーンを開始した件 ネット上の児童ポルノ規制に対する論調にはけっこうな危機感を覚えているが、それを表明するといろいろさしさわりがあるきがする 王様を欲しがったカエル | 児童ポルノを撲滅しようと画策している団体は、内部で児童にポルノを鑑賞させている。 児童ポルノの単純所持の違法化や、アニメや漫画、ゲームなどで児童を性的に描いたものも「準児童ポルノ」として違法化するよう政府・国会に求めていく。キャンペーンにはマイクロソフトとヤフーが企業として賛同した。 だから、対象が実在しない虚構の表現だというのに。誰かを思い浮かべて自慰したなら、準強制わいせつ罪を適用すべきですか。 「自分独自の、好みの萌えの切り取りラインを探す」のか、「萌えという共通言語を基盤としている」か 整理すると、オタク絵はオタクの共同体で流通していること、萌え絵は萌えの共通言語を基盤としていること(個人の好みの切り取りもある)、が線引きの基準(引用元では私的だと断っているが)でしょうか。 「萌えの記号」「最大公約数的な女の子記号」という表現もあるように、更に一言で言えば、「記号的」という辺りでしょうか。オタク絵(マンガ絵・アニメ絵)が記号的である、というのは、ごくありふれた認識ではあります。 記号的である、というのはまあそうでしょう。そこから、無個性であるという批判もしばしば見かけます。しかしここでは、別のことが言いたくて、それは、記号的でありながら、身体性も備えている、という両面性です。 記号的かつ身体的というのは、記号が有機的に組織化されているという意味です。有機的な組織化というのは、ここでは記号と意味が1対1対応ではないという意味です。記号的といっても、モールス信号のような機械的にエンコード・デコードできるものではなくて、解釈の幅があります。 文学なら比喩、美術なら色彩、音楽なら調性、これらはある種の記号的対応関係があります。暗い色は暗い、マイナーコードは暗い、というのはあるけれども、しかしそれは機械的な対応関係ではありません。そして、その曖昧性から、有機性が生まれる。 ただこれでは表現一般に言えるので対象を更に絞り込むと、萌え絵はさしあたりは美少女についての記号化と身体化を行います。まず、瞳が大きいだとか、白目・黒目の境界が消失して一様にベタ塗りされている場合は、何物かに意識を操られていたりして主体性がない状態を表しているとか、記号性はあります。 しかしまた、同じ意味(先のベタ塗りの操られ眼とか)でも、多種多様な表現がありえます。これは、同じ文字にも多様な書体がある、同じ楽譜でも多様な演奏がありうる、ということと同じで、パターンと個性は両立不可能なわけではありません。 パターンを踏まえて組合せで個性を出す、という話もどこかで聞いたことがあるでしょう。ここでは更にもう一歩踏み出したいと思います。それは、意味を生成する、あるいは文脈を生成する、という話です。 例えば極端な例ですが、断面図の表現というものが普及してきますと、虚構でしか見る機会がありませんから、最初はギャグにしか思えなかったのが、繰り返し見ているとだんだん、ある種の情感を印象付けられるようになります。 それは意味の生成でもあります。例えば「トカトントン」という感覚が誰かにあったとして、「今トカトントンなんだよ」と言ったとしても、意味不明です。言葉は人に伝えるものなので、人に通じない私的言語は意味をなしません。 しかし、様々な文脈で繰り返している内に、「あ、今トカトントンでしょ」と、意味の共有に成功する場合があります(失敗することもあります)。たとえ二人でも共有に成功すれば、公的言語です。そして、そもそも人が言葉を覚えるのも、基本的にトライアンドエラーで覚えていくわけです。 現代の先端にある萌えは、いかにも「最大公約数的な女の子記号」ではなくて、「ヤンデレ」のように、共有のハードルが少し高いものです。意味を生成して普及させるのに成功した絵は二次創作で模倣されますし、もちろん失敗するものもたくさんあります。 だから、最初の引用に戻ると、「自分独自の、好みの萌えの切り取りラインを探す」のか、「萌えという共通言語を基盤としている」か、という風にどちらかではなくて、私的言語と共通言語の両極の中間領域に、位置しているように思われるのです。 id:kagamiさんが仰る疑問はもっともだと思います。ツンデレ・ヤンデレブーム以降は揺り戻しがありますが、萌え系の作品はキャラクターが変化しないことが好まれます。だから、キャラのイメージが崩れると、作画崩壊といって大騒ぎするわけです。ある意味で凄く保守的です。しかし、変化がないのであれば、夢中で気まぐれな萌えの性質は満足しないのではないか、という疑問が生じます。 この問題には、ある種のダブルスタンダードで対応していると思います。最初の記事にあるようにヒロインの話で言うと、原作は処女的なイメージを崩さないことを求めるのだけれど、二次創作は性的だったり、病的だったり、破壊的だったり、変化を求めていく。それは、ゲームがリセットできるように、一次創作のイメージにキャラをリセットできるから、二次創作でキャラが崩れていてもある程度寛容なわけです。 一次創作のレベルでは、キャラクターの徹底した一貫性が求められて、逆に二次創作では変化や多様性を求めるという二層構造があります。ニコ動でMADが流行するような現在では、この二極の乖離はより極端な形で進行しているように思えます。つまり、アニメータの個性はいらないが、MADはハメを外すほど面白い、という二極化です。 よくコンピュータの環境が進歩して創作が手軽になったといいますが、その多くが二次創作に流れていて、一次創作は(ひぐらしや東方のような、同人でありながら二次創作が流通するような超有名作を除けば)あまり元気がない。二次創作は、設定などベースが既にできており、一定のユーザが最初からついていて、承認供給も得られやすいので、自然とそうなるでしょう。 そして、アニメータが工業製品的に無個性を徹底的に要求され、その割りに(末端は)別に高給でないのなら、MADを作って遊ぶ方が楽しいよね、ということになっていきそうです。今はともかく、十年単位で世代交代したときに、変化が現れるかもしれません。変化自体の賛否とは別に、流れは把握しておきたいわけです。 レポートを書くときに、まずGoogleの検索で探して……、という生徒が増えているのと同じで、創作するならまず先行する創作を見つけて、という感じになっている。ただ、そこでもやはり何らかの個性はあるだろうと思います。つまり、一次創作の高速道路を利用しても、降りた先では、二次創作同士で差異化するための大渋滞が起きている、というイメージです。 |
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