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ぼんやりとは?/ ノーローン

[ 564] ぼんやり上手
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/ayakomiyamoto/

見渡すかぎり緑の海、一面の落花生畑の向こうから、濃紺色のヨーロッパ車が土ぼこりをあげてこちらに向かってきた。
若く美しいカップルは、あぜ道を走る車の揺れにはしゃいで笑い合っていた。二人はピクニックのような気持ちで、富岡養一郎が所有する広大な落花生畑にやってきたのだった。
町の若い娘たちは未来の貴婦人の座を奪われた悔しさで歯軋りし、男たちは町一番の小町が天狗にでもさらわれたような気持ちでため息をついた。
まだ17だ。なにも婚約までしなくてもいいではないか。ひょっとして工場のことを心配してこんなことをしているのか?
平日はおさげを下げた女学生のままなのは変わらなかったが、休日になると髪を下ろし、富岡養一郎から送られた流行りの仕立てのワンピースをまとって、二人で町に出かけるようになった。
実際みんなが言うように、富岡養一郎はうっとりするような紳士で、あんなにも腹立たしく感じられた横柄さもは、頼もしさとして置き換えが可能だった。婚約者という席に落ち着いた今となっては、富岡養一郎の屋敷の前を息を詰めながら通っていた日々のことが嘘のようだった。
富岡養一郎は、エスコートでさりげなく手を引く以上のことはサチコにしなかった。婚約騒ぎで度胸がついたサチコは、そのことを不思議に思っていたが、実はこれ、学校を卒業するまではサチコに何もしないと陰で鈴木が富岡養一郎に約束させていたからでもあった。
「あなたを信頼するからお願いするんです。あの子はほんのちょっと前まで子どもだったんですから」
富岡養一郎はこの密約を了承したが、これは彼が赤い実が熟すまでは収穫の機を待つことをいとわない性格だったからである。
もうもうと土ぼこリを上げながら、落花生畑の真ん中で車を止めると、農作業をしていた日雇いの小作人たちが次々と挨拶に集まってきた。
貿易商の富岡養一郎が、落花生を直営農場での流通に切り替えるために、この広大な畑を購入したのは、千葉島に移って間もなくのことだった。
小作人たちのほとんどが千葉島や本土からの出稼ぎだった。支払いもよく、まかない付きの個室の宿泊所を斡旋してくれる富岡養一郎は、彼らの間でも優しい主人として評判だったのである。
「あの旦那ときたら、夜更けに音もなく小作の娘っこの部屋に忍び込んで、娘っこをさんざんぱらいじくって帰っていくんだからね。まるで小鳥につきまとう蛇だよ」
「嘘じゃないよ、私は何度もそういう娘っこを見てるんだからね。あんたもその一人ってだけのことだよ」
とはいえこれは少数意見で、富岡養一郎は小作人たちからはおおむね、おらが立派な旦那さまで通っていた。
例えば、まだ15にもならない小作の少年は、富岡養一郎の紳士ぶりにすっかり心酔していて、なにか機会があれば旦那さまのお目に掛かりたいと考えていた。
その憧れの旦那さまが、今日は麗しの婚約者を連れて農園にやってきたのである。待ちに待った絶好の機会であった。
少年は自分の勤勉で雄雄しい姿を見てもらおうと、電動式の最新農耕機にまたがり、畑の向こうに見える富岡養一郎に向かって発進させた。
「旦那さまあ!」と声を張り上げ、農耕機に乗って近づいてくる紅顔の少年に、富岡養一郎はにっこり笑って手を振った。しかし、農耕機は富岡養一郎の前まで来ても止まらなかった。少年は農耕機に初めて乗ったので、ブレーキがわからなかったのである。
あっけにとられる人々を前に、農耕機は落花生の苗をなぎ倒し、「旦那様あああああ」と悲鳴を上げる少年をさらって、農園の外に姿をくらましてしまった。その行方はいまだ知れないということだった。
両手でやっと抱えられるような大きな花束や外国製の高級チョコレート、金の糸で繊細な刺繍がほどこされたハンカチーフ、夜会でエスコートされるために着るようなアジサイ色のシルクオーガンジーのドレス、はては美しい声で鳴くつがいのカナリヤまで、17になったばかりの女学生には、いくらなんでもそれは過ぎた贈り物だった。受け取り手が、送り主の傲慢さを感じないといえば嘘になる代物だった。
次々に運び込まれて、部屋を埋め尽くす贈り物の数々に鈴木は困惑した。花の匂いが部屋に充満し、南国から連れてこられた鳥の歌声が、二人暮らしの落ち着いた空気を乱していた。
プレゼントの山に耐えかねて、おずおずと尋ねる鈴木に、サチコは「知らないわ」と答えた。言ってから自分の口調の冷たさに驚いた。そうして、鈴木にこんな質問をさせる富岡養一郎のことを、ますます腹立たしく感じたのである。
贈り物の品をつき返さなかったわけではなかった。直接返すのが嫌だからと、工場の人に頼んで富岡養一郎の屋敷に行ってもらったことがあった。
若い工員が両手一杯に抱えた包みを、富岡養一郎は頷いて、なるほど了解したとでも言うように受け取った。
しかし、次の日になると、つき返されたプレゼントの代わりとして、その何倍も高価そうな品物が届けられたのである。どう抵抗してみたところで、富岡養一郎の前では単なる悪あがきにしかならないようであった。
そう気持ちを奮い立たせて学校を出るのが、サチコの日課になりつつあった。けれども、長い坂道を下って屋敷の前まで来ると、なぜだか花がしおれるようにその気持ちが萎えてしまうのである。
それならそれで、徹底的に無視してやろうと思うのだが、どうしても気になって庭のほうを向かずにはおれなかった。そうなると、あっという間にサチコの視線は富岡養一郎のそれにからめ取られ、身動きが取れなくなってしまうのである。
富岡養一郎に見つめられると、サチコは頭の裏側がしびれたようになって、あんなに腹を立てた贈り物のことも何もかも忘れてしまった。自分と、視線の先にいる人物のほかは、世界が煙のようにぼんやりと霞んでしまったように感じられた。
そうして、やっとのことで屋敷の前を離れると、サチコは自分のふがいなさに思わず涙を浮かべるのであった。
富岡養一郎が鈴木の家を訪問しにきたのは、そんな日々が一ヶ月ほど続いたある夕暮れ時のことだった。
鈴木は馬鹿げた考えだと思いながらも、、毎日の贈り物があまりにも常識から外れているので、ひょっとして富岡養一郎という紳士はこの世に存在しないのではないかと疑いはじめていた頃だった。
そこに件の青年紳士が、帽子を片手にこの上なく優雅に現れたのである。出迎えた鈴木はお化けに訪ねてこられたような気持ちになって、肝を冷やした。
向かいあって座ると、なるほど、町のみんなが噂するように美しい顔立ちで、スーツの下には牡鹿のようなたくましさを隠している立派な紳士だった。表情からは、ほがらかな社交性と大胆さ、そして少しばかりの気難しさが見て取れた。
鈴木は驚いて、自分の工場にもいろいろと得意先があるのでそれは無理だと言った。富岡養一郎は折れずに、通常の卸値の倍は出しますからと言う。鈴木は困り果ててしまった。
実は、このところの原材料費の高騰を受けて、工場では醤油を大幅に値上げしていた。そのため買い手がつかなくなった醤油がたくさん余っていたのである。
これはうちの工場の苦しい状況を知って言っているのだろうか? ひょっとしてサチコが関係することなのか? さまざまな考えが頭をかけめぐり、 少し考えさせてほしいと返すのがやっとだった。
富岡養一郎はにっこりと微笑んで、どちらにとっても有益な話なので、前向きにご検討いただければ幸いだと答えた。
商売話の延長のように切り出されたその言葉に、鈴木は目を丸くした。許しを得るというより、決定事項を伝えるようなその調子に、鈴木は思わずカッとなった。
すると、スッと部屋のふすまが開いて、サチコが現れた。二人の話を、部屋の外からずっと聞いていたのだ。サチコは目に涙をいっぱい溜めて鈴木にこう言った。
丘の上にあるサチコの女子高でも、通りのお屋敷に越してきた青年実業家、富岡養一郎の噂で持ちきりになっていた。
「あの人はこの町に若い花嫁を探しにきたのよ。あんな立派な紳士に奥さんがいないなんて考えられないものねえ」
ませたクラスメイトたちはそう言って、制服のスカートのすそを揺らしながらきゃらきゃらと笑った。
奇妙なことだが、富岡養一郎が嫁探しにやって来たという噂は、町の多くの女性たちの間でまことしやかに語られるようになっていた。
この学校の女生徒たちの間も例外ではなく、ひょんな拍子で富岡養一郎が自分のことを目に掛けて、この小さな町から連れ出してくれるのではないかという漠然とした夢が、熱病のように広がり始めていた。
そうして彼女たちは、町でいつ出くわすとも知れない富岡養一郎のために、髪にせっせとブラシを当てて、放課後には白い靴下から校則違反の黒いストッキングに穿き替えるようになっていた。
サチコは、そんな風に熱に浮かされたクラスメイトたちの話を聞いても、自分にはよくわからないとでも言うように、小首をかしげてひかえめににっこりと微笑むだけだったのである。
山道に突然現れた白い花のような、人をはっとさせる美しさを除けば、サチコはごく普通のひかえめな少女に成長したように見えたのである。
しかし、その一方で、不思議な力はサチコのやわらかな体の内側から、外に出る機会をじっとうかがっているようにも思えた。
実のところ、サチコは今でも予言めいた夢を見ることがちょくちょくあった。それは、探している落し物のありかから、近所の人の病気の行く末といった人の運命にまつわるものまで、さまざまだったが、その予知夢が大きく外れることはほとんどなかった。
大きくなるにつれ、サチコは鈴木に夢の話をしなくなっていた。夢の話をすると、きまって鈴木が少し困ったような顔をするからだ。サチコはどんなに鮮明に他人の未来を夢に見ても、自分の胸だけにしまっておくようになった。
そうして、他人のことは当たり前のように夢に見ても、自分についての夢はとんと見ないことを少し不思議に思うのであった。
クラスメイトたちに別れを告げて、サチコは一足先に学校を出た。長い黒髪をきっちりと結わいた二本の三つ編みを揺らしながら、学校からの長い坂道を下ると、そこは富岡養一郎の大きな屋敷に面した通りである。
サチコは薔薇の生垣が匂い立つ富岡養一郎の屋敷を、通り過ぎざまにちらりと横目で見た。なんとまあ大きくて立派で、この町と馴染まないお屋敷なんだろう。
次の瞬間、海から吹いてきた潮風で薔薇の香りがかき消され、サチコは自分が何かを思ったことも忘れて、家に向かって歩き出していた。
垣根の陰になっていたので、サチコは気付かなかったが、ちょうどその時、富岡養一郎は庭に出て、植物の剪定をしているところだった。薔薇の生垣の隙間から見える、しなやかな足取りの女学生の姿を、富岡養一郎はずっと目で追い続けたのである。
翌日から、サチコが下校する時間に合わせて、富岡養一郎は庭にカウチを出し、そこで午後の休憩を取るようになった。カウチに長い足を投げ出した彼の物憂げな姿は、はた目には仕事疲れを癒すために午睡を取っているようにも見えたが、その目は通りを歩いていくサチコの姿から一時も離れなかったのである。
驚いたのはサチコである。花の盛りを迎えて、町では千葉島小町と噂されるくらいになっていたサチコだったが、大人の男からこんな風に無遠慮に見つめられることは今までなかった。
痛いくらいに視線を感じながら、サチコは下を向いて屋敷の前を足早に通り過ぎるようになった。意識しないようにすればするほど、屋敷の前では、体がぎくしゃくするような気がした。
ある日、いつものようにうつむきながら屋敷の前を通り過ぎようとすると、サチコは何か様子が違うことに気付いた。恐る恐る屋敷のほうに目を向けてみると、カウチは空っぽだった。誰もいない。
サチコは気が抜けて、馬鹿馬鹿しさを覚えると同時に、こんな野ウサギのようにビクビクしている自分に腹が立ってきた。そうよ、人喰い鬼の屋敷じゃあるまいし。
翌日、富岡養一郎の屋敷の前まで来たサチコは、思い切って立ち止まり、視線を感じる庭先に体を向けてみた。彼を正面から見るのはこれがはじめてだった。
たちまち、サチコの視線はカウチの上の富岡養一郎の黒い瞳に捕らえられた。さっきまでの威勢のよさはあっというまにしぼんでしまった。サチコは立ちつくしたまま、自分を見据える富岡養一郎から目を離すことができなくなってしまったのである。

 

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