様相とは?/ ノーローン
[ 1206] 「三国志演義」の様相を呈するYahoo!、Google、MSN(前編) - ビジネススタイル - nikkei BPnet
[引用サイト] http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/news/051027_ygm1/
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先日、中国人の友人が、「インターネットサービス大手のYahoo!、Google、MSNは、中国の『三国志演義』に出てくる国々の力関係とよく似ている」と話していた。歴史との比較はともかくとして、このインターネットサービス大手3社は、持てる力をフルに生かして、市場におけるより良いポジションに立とうとしている。競合する市場は、コンテンツ、検索サービス、広告、通信、eコマース、オンラインバンキングなど非常に幅広い。 ここ1年の間、Yahoo!、Google、MSNは、高い技術力を持つスターを採用しようとして、競合状態あった。例えば今年の7月、台湾出身の有名な工学博士である李開復氏が、マイクロソフトを辞めてグーグルに移った。この直後、マイクロソフトはその怒りを露わにしたのか、知的財産権の侵害を理由にグーグルを訴えている。さらに10月8日には、「インターネットの父」と呼ばれるビント・サーフ氏もグーグルに入社した。 ヤフーには、Xerox PARCでGUI(グラフィカル・ユーザーインターフェース)を研究していたラリー・テスラー氏と、以前IBMのアルマデン研究所で検索技術の研究をしていたプラブハカル・ラグハバン氏が数カ月前に入社している。テスラー氏は、アップルコンピュータやアマゾンで優れた仕事をし、広く世の中に知られた人物だ。 ヤフーとグーグルに比べてマイクロソフトは、優秀な人材を引き付けられなくなっていると、最近よくシリコンバレーで言われている。とは言え、Lotus Notesの開発者レイ・オジー氏やサン・マイクロシステムズでソフトウエア・アーキテクトを勤めた宮力(Gong Li)博士などが、今年の春、マイクロソフトに入った。マイクロソフトCEOのスティーブ・バルマー氏は、9月26日にWebサイトに掲載されたインタービューで、「マイクロソフトが人材募集の過程でオファーをする候補者の9割は入社している」と自慢している。 しかし、ここ1?2年で見ると、どう見てもグーグルの人材獲得力がダントツで最も輝いている。その理由としては、「サンフランシスコの一流レストランの味に負けない食事が、毎日、会社の食堂でただで食べられる」、「マッサージ師に、いつでも肩や足を揉んでもらえる」といったことが冗談まじりに挙げられている。ただし、何よりの理由は、周りに優秀なメンバーがたくさん居ることにあるようだ。「大学時代に読んだ教科書の著者が隣のキューブで仕事をしている」、「いま自分がプログラミングに使っているコンピュータ言語の発明者がチームリーダーであった」という具合だ。 |
[ 1207] 初心者のための記号論:様相と表現
[引用サイト] http://www.wind.sannet.ne.jp/masa-t/yousou/yousou.html
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記号論には、テクスト分析という形で出会うことが多いが、それはまた、実在(reality)の構築における記号の役割に関する哲学的な理論付けを含んでいる。記号論は表現と、表現という実践活動に含まれる過程に関する研究を包含する。そして、記号学者にとって、‘実在’は常に表現を含む。 記号学者にとって、記号を決定する特徴は、それらが使用者にとって他の物の‘意味する’また表現する物として扱われることである。ジョナサン・スイフトの、ラガーゴの虚構の学者に関する皮肉っぽい物語は、記号が我々の世界にある物理的な物の代わりに直接なるという常識的な考えの不適切さを浮かび上がらせている。 全ての言葉を廃止する案は、簡略さと健康のために良いと主張されている。我々が話す言葉は、腐食作用によって肺を減少させているのであり、その結果、命を縮めているのである。言葉は単に物の名前なので、全ての人が話したいと思う用件に必要な物を運べばもっと便利なのではないかいう案が出されている。もし女性たちが、粗野な人や無学な人たちと一緒になって、祖先のように舌で話す自由をゆるさなければ叛乱を起こすと脅さなければ、この発明は実現するところであった;科学にとって常に和解できない敵は民衆である。教養のある人や賢い人は、物自体のよって表現する方法に固執しているが、一つの問題点はある人の用件が大きくまた種類が多いと、召使がいないと背中に大きな荷物を背負っていかなければならないことである。私は、我々のまわりの行商人のように荷物の重みで沈みかかっている賢人を二人見た;通りで会うと、荷物を降ろし、包みを開け一時間ほど話をする;それから、道具を包み、荷物を背負うのを互いに助け合い、去っていく。 しかし、短い会話のためなら、ポケットや小脇に抱えて道具を運ぶことができるし、家の中では困らない:このため、この方法を実行する人たちが集まる部屋は、この種の人工的な会話を行うために用意された物で一杯になってしまう。この発明のもう一つの利点は、全ての文明国で理解される世界語として使えれることである。その文明国では、所有品や家庭用品はおなじ種類か似た物になるので、その使い方をすぐ理解できる。そして、大使は、話し方が分からない外国の王女や首相と折衝するのが容易になるだろう。 そのような観点からは、実在には創造者がいる;客観主義者により断定されているような単一の実在ではなく、むしろ多くの実在がある。この立場は、言語と実在の間の関係に関するウォ−フ流の枠組みと関係している。解釈主義者は、極端な主観主義者が言っているように実在は際限がなく個人ごとに独特のものである、ということはないと主張している;むしろ、それらは社会的定義の産物であり、地位がばらばらである。実在については論争されており、テクスト表現は‘闘争の場’である。 同じ物を撮った写真と漫画を意識的に比較した場合は、写真の方がより‘現実的’と判定されるが、視覚的認識に含まれる心的輪郭は、写真よりも漫画という紋切り型の簡略的な絵に近いかもしれない。人々は手の写真を見せられよりも、漫画の方がすばやく手としてのイメージをつかむことができる(Ryan & Schwartz 1956)。これは、実在を構築する上での認識的コード の重要さを裏書している。ウンベルト・エーコは、習熟により類像的記号表現はその記号内容に対する優越性を確保できる、と主張している。そのような記号は‘受信者がそれに慣れるにつれ、一歩一歩、慣習的になっていく。ある時点で、類像的表現は、どんなに様式化されていても実際の経験よりも真実に近いように思われ、人々は物を類像的慣習という眼鏡で見るようになる(Eco 1976, 204-5)’。 テクストの中での様相の手がかりは以下のように、媒体の様式的な特徴と内容の特徴を含む(高い様相の典型的な手がかりがそれぞれの対の最初に示してある)。しかし、もっとも重要なのは、それらの相互作用と解釈である。 Ang (1985)は、次のように主張している。テレビのメロドラマを見ることには、指示的レベルというより共示的レベルで、視聴者にとって一種の心理的または感情的現実感が含まれている。視聴者は、感情的または心理的に‘生活に即した’表現を見出す(たとえ、指示的レベルでそれが‘非現実的’に見えたとしても)。特に、(ファンにとってはその期間より‘現実的’に見えるかもしれない)長期間の連続ドラマでは、包括的な現実感(generic realism)と呼ぶものもが、もう一つの要因であると著者は言いたい。特定のメロドラマの人物や習慣に通じている視聴者は、ある外部の‘実在’を考えるよりもドラマ自体の包括的要因でその番組を判定する傾向にある。例えばある人物の今の行動は、その人物についてこれまで学習してきたことと一致するであろうか?そのドラマはある程度、それ自体この世界のこととして当然受け入られるかもしれないが、そこでは少し違う物さしが適用されるかもしれない。もちろん、これが、ドラマがそれに依存している‘疑うことの自発的な停止’とColeridgeが呼んだものの基礎となることである。 媒体(例えば、漫画本、(時事)漫画、映画、TV、絵画)または内容(例えば、西部劇、サイエンス・フィクション、ロマンス、ニュース)のどちらにより分類されるにせよ、種々の様式は一群の様相の標識と、様式に対する基本線として作用する全体価値を確立する。この基本線は、種々の分野の視聴者/読者、また種々のテクストやテクストの要素によって異なってくる。 表現の‘実在的’スタイルとして認識されるものは、美的コードを反映している。時とともに、ある媒体や範疇におけるある制作方法は、自然なものとなってくる。内容は‘実在の反映’として受容されるようになる。たとえば、大衆的なテレビや映画では、‘隠された編集’(invisible editing)の使用は、大部分の観客にとって‘自然’と思えるようになるほど普及した慣例の代表的なものである。‘実在的’なテクストでは、もっとも目立つのは作品の‘様式’または文体よりも、内容である。‘科学的’談話に関する支配的な方式では、媒体とコードは中性的であり透明であるとしてその役割が割り引かれ、テクストの標識は見えないものに後退する。その結果、‘実在’はその表現に先在し、そして実在は‘それ自身を語る’と思われている:述べられることは、このように‘真理’のオーラ(霊気)を有するようになる。John Taggは以下のように主張している。 記号表現はあたかも、先在する記号内容と一体化しているように扱われる、そして...、読者の役割は純粋に消費者になる...。記号内容と記号内容が一体化しているように見えるだけでなく、記号表現は透明になり、概念はそれ自身を呈示するように見える。そして恣意的な記号が、表示と指示物またテクストと世界の見せ掛けの一体化により元から存在する自然なものと見なされるようになる(Tagg 1988, 99)。 我々は習慣的に、テクストの‘意味’を述べられたまたは推定された作者の目的に関係付けるが、マグリット自身の目的は我々の現在の関心にとって必須のものではない。我々の目的は、この表現は(またはどの表現でも)それが表す物ではないという意味としてその絵はとらえられると示唆することである。このパイプの像は、‘像に過ぎないし’そしてそれでタバコを吸えないことは明らかに思える −正気の人はだれもそれを取り上げて本物のパイプとして使おうとしないだろう(ただ、多くの読者はだまされた男が不幸にも、‘妻を帽子と間違えた’話を聞いたことがあるだろう)。しかし、我々はそのようにリアルに画いた物を見ると、画かれている物以上の何者でもないと考えるだろう。表現は、それが表現する物の単なる再製以上の物である:それは、また実在の構築に寄与する。‘写真写実主義’でさえ、媒介されない実在は描かない。もっとも写実的な表現は、象徴的また比喩的に他の何物かを全面的に‘表象する’かも知れない。さらに、パイプの絵は、それが正確に画いている特定のパイプがこの世界に存在するということを保証しない。まさに、それはかなり一般的なパイプのように見え、特定のパイプというより(あたかも言語の授業、子供用百科事典等でしばしば用いられる)パイプという概念の説明図として見ることもできる。標識は我々の解釈を 係留(anchor) しようとしている −係留は後で触れる概念である− しかし同時に、標識は枠に付けられた題目よりもむしろ絵それ自身の部分でさえある。マグリットの絵は、惰性から抜け出るための一つの試みと見られるかも知れない:我々は、物を見てそれに標識付けするのに慣れているので、その物を深く見ないしまたその特性を把握しようとしない。美術(特に超現実主義美術;シュールリアリズム)の一つの役割は(ロシア・フォルマリズムの人たちが言ったように)‘ありふれた不思議を作る’ことである。 我々が認識する牛は言葉ではなく経験の対象であり、それは神経系統が抽象化した(選択した)物である...。 (乳牛)‘ベッシ−’という言葉はlevel2の認識対象に与えられた名称である。その名前は対象ではない;それは単に対象を表しているに過ぎず、対象の多くの特性への指示を除いている。 ベッシ−が‘農場の資産’に含まれる場合は、指示は、農場における他の全ての売却可能な項目と共通なことに対してなされる。 梯子(はしご)という比喩は、抽象化のレベルを示す方法として適している −思索家のことを‘雲の中にある頭’、‘現実家’のことを‘地に足が着いている’と言う。梯子を上るにつれ、特殊から一般に、堅固な現実から抽象的な一般性に移っていく。勿論、一般意味論者は頭の固い実在主義者であり、人々が地にしっかり足を置いておくことを望んでいる。言語の使用者に抽象化のレベルに注意を向けさせる際には、一般意味論者は高位の論理型と低位の論理型を取り違えないように努めている。‘地図’は‘領土’より高位な(より一般的な)論理型であり、そして特に言語表現はこの抽象化のプロセスとして役に立つ。明らかに、ある場所のことを知るのには地図を見るよりは訪れた方がより多くのことを学べるし、また人のことを知るには写真を見るよりは会ったほうが良い。低位レベルから高位レベルに移ることにより、その特性を失うことは避けられない −段々目が細かくなる篩にかけられた土のようにまたは繰り返し複写されたコピーのように。その結果生じる損失に着目すると、不在や排斥は‘一般意味論者’だけでなく記号学者にとっても重要となる。論理学者はそのようなレベルを分離できるかもしれないが、大部分の伝達行為では‘ずれ’が常に生じるが、我々は通常は扱っているメッセージの種類に抽象化のレベルを割り当てることにより同定している。記号学者は、人間のコミュニケーションではある種の‘移行’は避けられないと見る。C・レヴィ=ストロースは、‘理解は、実在のある型から他の型への還元にある’と言っている(Levi-Strauss 1961,61)。A.J.グレマスは‘意味作用は...あるレベルの言語から他のレベルの言語、ある言語から異なる言語への転移に他ならず、意味はそのようなコードの変換(transcoding)の可能性に他ならない’と見ている(Jameson 1972, 215-216に記述されている)。 抽象ということ、をレベルと論理的な型付けという点から考えるのは有用なことだが、一般意味論者の‘抽象化の梯子(はしご)’のなかに暗に含まれた濾過機の比喩はあまりに一次元的過ぎる。認識された‘対象’は単一の‘客観的な’体系ではなく、いろいろな方法で類別される。適用される範疇(categories)は経験、 役割や目的などの要因に依存するが、これが理解に関する論争を引き起こす。例えば、婦人の顔を使った宣伝を見たとき、その像は一般的な婦人を代表しているとある人は思い、他の人は彼女が特定のタイプ、役割やグループを表現していると考え、さらに彼女を特定の個人として認識するかもしれない。そのような像を理解することに関して、適切な抽象化レベルを知ることができるかどうかは関連する文化的 コードに精通しているかどうかによる。 ジークムント・フロイトは、彼の巨大な影響力をもつ本夢判断(The Interpretation of Dreams)の中で次のように主張している。‘夢の内容は、あたかもそれであるように絵文字で表現され、何を象徴しているか翻訳しなければならない...。勿論、これらの象徴を絵としてその価値と関連させて読むのは間違っており、それらの意味はそれらが何を象徴しているかを読むべきである’(Freud 1938, 319)。彼はまた‘言葉は夢の中で物として扱われる’と見ていた(Freud 1938, 319)。マグリットは、記号表現と記号内容を同一視する我々の習慣を、対象と‘それに属していない’言葉の標識をもった一連の線画と絵によりからかった。夢判断という題目がついた油絵で、6個の良く知った対象の言葉の標識が付いた像と出会う。そのような配置は、黒板のような背景によって示唆される言語習得という文脈でお馴染みの物である。しかし、すぐに言葉は絵と対応していないことが分かる。心の中でそれを再配置しようとすると、標識はどの像とも対応していないことが分かるだろう。対象の像とそれに付けられた言葉の標識は恣意的なものとして提示される。 言語は、我々が世界を“理解する”前に存在するので、命名法として経験される。言葉は物の象徴であると見られる。というのは、言語を構成する差異のシステムの外側では、物を考えられないからである。同様に、これらの物そのものは心の中、つまり思考の自律的な領域で、表現されると考えられている。というのは、思考は本質的に象徴的であり、象徴的な秩序によって引き起こされる差異に依存するからである。そして、そのように言語は経験および/または心の中での意味の探索のため、‘監視され’、隠される。物の世界と主観が真理の二人の保証人となる(Belsey 1980, 46)。 ハムレットは言っている:演劇の目的は昔も今も、‘自然に向かって鏡をかかげ’、善は善なるままに、悪は悪なるままにその真の姿を抉り出し、時代の真相を浮かび上がらせる(シェイクスピア、ハムレット,III, ii)、そして‘真実であること’が多分、今でも文学的価値を判定する主要な基準なのである。しかし、Belseyは次のようにコメントしている: 文学という形式が世界を反映しているという主張は、単に同義反復(トートロジー)に過ぎない。もし‘世界’という概念で、我々が経験する世界つまり言語により区分された世界を理解するなら、実在主義は世界を反映すると言う主張は、実在主義は言語で構成された世界を反映しているということを意味する。これは同義反復である。もし言説が、記号と世界の実体との関係によるというよりも記号同士の関係によって意味する記号システムを通して概念を分節するなら、またもし文学が意味行為なら、それが反映できるものは、全て特定の言説に刻まれた秩序であり世界の本質ではない(同上)。 言語という媒体は、‘透明’という幻想を獲得するようになる:媒体のこの特徴は、経験的な世界を構築するにあたって、それが果たす役割から使用者の目をそらせる傾向にある。‘現実感のある’テクストは、表現の中に見せかけの目的を反映する −余りにそっくりに真似しようとするので、経験したことを仮想的に全く同じように(そして自然に)描くことになる。純粋に言葉での記号表現が、現実世界の指示物と間違われないのは明らかである。言葉を慣習的な象徴記号と認めるのは容易であるが、記号内容に似ているイメージの慣習性を認めるのはなかなか難しい。まさにイメージでさえ、それが表現する物ではない −イメージの存在は指示物の不在を印象付ける。記号表現と記号内容の差異は根本的なものである。それでも、記号表現が高度に‘現実感のあるものごと’として経験されると −写真や映画のように− 、記号表現と記号内容が同一であると認めることへたやすく滑り込んでいく。現実感のある絵画や線画と対照的に、写真は作られた(authored)という感じが少ない。‘言葉は物でない’また‘地図は領土でない’と同様、写真やテレビニュースはそれが描く現象ではない。ただ依然としてまた日常生活における‘常識的’な態度として、高度な様相をもつ記号表現をそれが表現するものと同じものとして扱っている。まさに、多くの現実味のある映画の物語や記録映画は、表現と実在の混同を招き入れるように思える (Nichols 1981, 21)。このようにして、テレビはしばしば、‘世界の窓’とされ、‘カメラは騙さない’と仮定される。もちろん、‘映画の中の犬は吠えないし、噛み付かない’ことは知っている(Hall 1980, 131) (しかし、映画に引き込まれると、それが演じられているドラマであると知っているという文脈で、‘疑うことを停止’するかもしれない)。しかし、出来事がジャーナリストのカメラにより介在されている時でさえ、我々は‘自分自身の目という証拠’を受け入れる傾向にある。どんな媒体でも、高度に‘現実的な’表現も常に視点を含んでいる。‘現実的である’と主張する表現は、地図と領土との避けられない差異を否定する。ルイス・キャロルは、この差異の重要性を無視することから生じる論理的な帰結をこう皮肉っている。 ‘あなたの国から学んだ別のことは’とマイン・ヘルが言った、‘それは地図を作ることです。しかし我々は、あなたがたよりずっと詳細にそれを行いました。本当に役に立つもっとも大きい地図はなんだと考えますか?’ ‘たったの6インチ!’とメイン・ヘルは叫んだ。‘我々はすぐに1マイル6ヤードにしました。それから、1マイルに100ヤードを試しました。そして、もっとも申し分のない考えに達しました。実際、1マイルに1マイルの縮尺で国の地図を作成したのです’。 ‘それはまだ広げられたことはありません’マイン・ヘルは言った:‘農夫が反対したのです:彼らは、それは国全部を覆ってしまい、日の光を遮ってしまう!と言いました。それなので、いまは国その物を地図のように利用しています。それは同じように役立っていると保証します。’ 表現された物とその表現に間には、常に避けられない差異があるという意味では、‘カメラはいつも嘘をついている’。意味作用システムによる‘実在の歪み’に関して、我々は必ずしもいわゆる一般意味論者の‘科学的’実在論を採る必要はないが、そのかわり実在が記号に独立には存在しないことを認め、誰の実在が特定の表現において優先されるかという議論へ批判的に注意を向けても良いかもしれない −それは主観論に後退することを避け、社会的世界における権力の不均一な分布へ注意を向けるという視点である。 表現上の範例における三つの主要な歴史的な変化を、記号の指示の状態の区分に関するパースの枠組みと関連して位置付けられるかもしれない: |
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